身の回りの便利を哲学へ
中3 みさと(aetami)
2025年8月1日
生き物のように焔をあげ、やがて燃え尽きて灰になっていくかつての火の姿は、すべての人々のこころに火の思い出にまつわるさまざまな感情を呼び起こしたものだったが、そんな火との対話さえ、最近では次第に忘れられていく。それに変わって、電気釜や電子レンジがあらわれ、石油ストーブやセントラルヒーティングが普及してきた。かつての原初の火は、個人のレベルで向き合って対処することができたが、このように社会化されてしまった現在の火は、時に個人の知らぬところで暴発する。
私は、便利さに流されることなく、生きるための知識や知恵を自らの身を持って習得していきたい。
そのための方法としては第一に、便利なものに頼らず、自分の手足を使うことである。
例えば、近年はインターネット端末の普及により、漢字を覚えていなくても、書けなくても困らない世の中になった。だが、なぜ今も小中学生では漢字を学ぶのかといったら、それは漢字が必要なものであるからだ。漢字の成り立ちを覚えることは、日本語を、日本語の歴史をより理解することに役立つ。また、漢字が読める・書けることで、たくさんの本が読めるようになる。つまり知識を増やすことができる。だから、インターネット端末のみを使わず、アナログで文章を書くことも大切なのだ。
また第二の方法としては、学校教育においても、机上の勉強だけでなく、実体験に基づく学習を取り入れていく事である。
私の通う学校には「課題探究」という授業がある。16~20に及ぶコースから自分の興味がひかれたものを選択し、とことん追求していくという活動だ。例えば私が去年所属していたコースでは、毎時間着物か浴衣をきて、たくさんの日本文化を実際に体験したりした。他にも、毎時間実際に体を動かしてスポーツを探究するコースや、まわりの博物館や展示を見に行くコース、農業などを体験するコースもあった。生徒みんなが大好きな授業なのだが、それは実際に体験することの楽しさや、探究をしていく中で、たくさんの知識が繋がっていく感覚が好きだからだと思う。
確かに、一度便利になってしまった生活を変えることは難しい。しかし、身の回りにあるものの昔の、本来の使い方や、どうやって生まれたのかなどを考え、自分の手や足を使って生きるための知恵や知識を身に着けていく事が大切だと思う。私は今「ソフィーの世界」という哲学の本を読んでいる。大昔、哲学者と呼ばれた人たちは、常識や当たり前となってしまったことに疑問を抱いた。イデア説もあるが、私たちが生まれて来た時に見るものはすべて真新しいものだ。それらを見て不思議に思うことや、新しく発見したことなど、そのような視点が、成長する中で失われてしまっている。また、プラトンやソクラテス、アリストテレスなどの有名な哲学者達が生きた時代とは違い、現代は科学的な技術も発展している。そんな中に生きる私たちは、大昔の哲学者たちが気付けなかった答えや考えにたどり着けるのではないか。ただ身の回りにあふれた新しい物たちを「便利」に役立てるのではなく、そこから自分の考えを発展させるために活用するべきではないだろうか。