時間
中1 あえらて(aerate)
2025年8月1日
作曲に集中しているとき、不意に、音楽というものが、自分の知力や感覚では、捉えようもない(神秘的な)ものに思われることがある。自分なりに、音楽が解ったような気がしていただけに、そんな時、私は、戸惑いや焦りの後の無力感に挫けそうになってしまう。だがその無力感は、深刻な絶望とは異質な、むしろ居心地良さと温もりさえ感じられる「たぶんそれはなにか途方もなく大きな」諦めのようなものだ。こんな感情は、言葉ではとても伝え難い。私は待つしかない。期待ということではなく、己を空白にして音が私に語りかけてくるまで待つ。音を弄って私の考えで縛ることから離れて、耳と心を全開にする。作曲という仕事は、どうしても音を弄り過ぎて、その音が本来どこから来たかというような痕跡までも消し去ってしまう。方法論だけに厳格になると、ともすると音楽は紙の上だけの構築物になり空気の通わないものになる。例えば、ひとつの和音は、物理的波長の複雑な集束として、音響学的には、殆ど不変のものとして存在し、また規定し得るだろう。
第一の理由は自然のもののよさがたくさんあることだ。人工的に組み上げられた音の構造に頼りすぎると、そこにあるはずの自然な響きや、偶発的な豊かさを見落としてしまう。音楽の本質は、計算や設計を超えたところで生まれる「自然な成り行き」や「流れ」にこそ宿るのだと思う。だからこそ、私は時折、意識して自然の音や偶然の重なりに身を委ね、そのなかに新たな発見を求めている。方法論と即興—その狭間にこそ、音楽の息づかいがあるのかもしれない。
第二の理由は自然の音には人間の意図や制御を超えた偶発的な美しさが宿っていることだ。例えば、小川のせせらぎや風に揺れる木々の葉音は、決して同じパターンに留まらず、常に新鮮な響きを生み出す。その予測不能な変化や多様性こそが、私たちの感覚を刺激し、時に創作の原動力となる。計算し尽くされた構造も素晴らしいが、そこに偶然や自然の息吹が加わることで、音楽はより生き生きとしたものへと昇華するのだ。自然の現象と調和する瞬間、音楽は紙の上を離れ、真に自由な表現となる。
時間を作る第一の方法は、ただ闇雲に急ぐことではなく、自分が何に時間を費やすのかを丁寧に見極めることにある。慌ただしく過ごすうちに、本当に大切な瞬間や、創造の源となる静かな余白を見失ってしまうからだ。何気ない一瞬や、心が解き放たれるような「間」こそが、音楽と同じく、私の人生に新たな響きを与えてくれる。そのためには、意識的に歩みを緩め、流れる時間と調和しながら、自分自身にとって本当に必要なものを見つめ直すことが大切なのだ。