「食べられる」か
中2 つばさ(aeoni)
2025年8月1日
世間の関心の偏りも含めて「ら抜き言葉」をめぐる落差と断絶自体が、国語問題の現状を反映していると見ることもできる。その意味で、これを国語審議会の役割を考えるきっかけにできるし、再考する契機にもできよう。まず世代の断絶が背景にあり、官民の意識の落差もあるだろう。さらに、根本には言語観の違いも横たわっている。そして、審議会は規制を緩める方向に向いているということは、時代の変わり目で私たちの言葉をどうしていくか、各自が考えていく必要があるということだ。
確かに、使う言葉を変化させ新鮮味などを感じることも大切だ。一応私も最近の若者なのだが、友達とメッセージのやり取りをしているとたまに意味のわからない言葉が出てくる時がある。一番印象に残っているのは「うゆ」という言葉だ。この言葉を友達に送られてきたときには意味がわからず、一瞬誤字なのかとも思ったがきくと空気がしらけるような気がしていったん調べてみることにした。そうすると、「うゆ」は「うん」を意味する言葉ということがわかり、すっきりした。でもなぜこの言葉になったのかよくわからない。さらに、どのような言葉かもよくわからないので、やっぱり略された言葉などを使う時には気を付けた方がいいということが分かった。
しかし、正しい言葉を使うことで美しさなどを出すことも大切だ。演説などの正式な場面では正しい言葉遣いが求められる。私にとって身近な例での演説は学校の生徒会選挙や先生方の学年集会や全校集会での話がそうだろう。やはり、そのときに略された言葉ばかり使われていてはいい気分にはならないし気分もだらけてしまう。いつかの全校集会で校長先生が「ら抜き言葉」を使っていて残念な気持ちになったことがあり、正式な場では使わないほうがいいと思ったことがあり、何かのスピーチや作文などは気が付いたらできるだけ「ら」を入れるように気を付けている。昔話で言うと、「舌切り雀」がそうだろう。口調もしぐさも優しく正しいおばあさんとおじいさんはお礼をもらえたが、口調もしぐさもすずめが正しいと思わなかった悪いおばあさんは罰をくらう。正しく優しいことをすると自分たちに帰ってくるということがこの話から分かるからだ。この話を読むと毎回行動に気を付けようと改めて思う。
使う言葉を変化させてみるのも、正しい言葉を使うことも大事だが、一番大事なのは自分の言葉に内容に責任をもつことだ。「言葉には責任がある。それは放たれた矢のように、もう戻らない。」という言葉もあるように言葉に責任をもたず軽い気持ちで話していてはどの場面で相手を傷つけるかわからない。私も相手が軽い気持ちで言ったであろう言葉に深く傷ついたことがある。その人と部活の話になり、そこから後輩は誰がうまいかという話になった。その人はこの話の少し前にも先輩のことを濁らせずに下手だと言った時点で嫌な人だと思った。そして、その後輩の話でその人が一人の後輩は今の二年生よりも上手だと言った。その言葉に私はかなり深く傷ついた。何週間もたっている今でも覚えているのだからかなり傷が深いのだと思われる。という風に人を傷つけたり、傷つけられたりすることがあると身をもって実感した。もしそこで、正しい言葉づかいで遠回しに言われていたならまだ傷は浅かっただろう。でもその言葉へのその人への怒りが部活での原動力にもなっている。だから、私も自分の体験を通して言葉には気を付けて話していきたいと思った。