自然を受け入れないといけない
中1 あかそよ(akasoyo)
2025年8月1日
作曲に集中しているとき、不意に神秘的なものだと感じることがある。そんな時、戸惑ったり焦ったりしてしまう。このよう生きているように感じるのか?その答えは「音」が間違いなく生きているからだ。音を使って作曲するのではない。音と作るのだ。自分の意志だけではなく何か大きな力に働きかけられている。私はそれを受け止めなくてはならない。自然から学ぶことはあまりにも多すぎる。本当の自然を見出すのは容易ではないが、せめて自然の移り変わりぐらいは分かりたい。それは音が語り掛けてくる壊れやすい言葉の表情のいろいろを聞き逃すことがないように働きかけてくれるだろう。作曲は音と人間とで一緒に作っていかないといけない。作曲家は傲慢であってはならない。だから自然を受け入れていかないといけない。
第一の理由は自然の方がいいからだ。花とそれをまねて作った造花がある。花は確かに枯れてしまうが、それまでの成長や香り、色の変わり具合などを楽しむことができる。だが、造花は花が咲いた状態で売っていてそれから枯れもしなければ成長もしない。それに色が変わるが、それは紫外線などで経年劣化して色が黄ばんだり薄くなったりするだけでなんだか不自然だ。それに経年劣化によりバラバラになって家が汚れる。これもある意味「枯れる」といったら「枯れる」なのかもしれないがこれも色と一緒でなんだか腑に落ちない。それに、造花では本物の花を十割まねしているわけではない。一般的にきれいだと思われるような花びらや葉といった物しか表現されていない。そのため、雄蕊、雌蕊がなかったりするため子供を作るという本来の花の意味を失ってしまっているように思う。
第二の理由は自然は仲間だからだ。人間はもちろん人工物ではない。同じように自然も人工物ではない。人間も自然由来の生き物なのだ。だから人間も自然の一部、すなわち仲間なのだ。人間も他の動植物と同じように呼吸をする。自然のものと共通点がとても多いはずだ。どちらも自然のものだからだ。自然を仲間で必要なものだと思っておかないと、自然がなくなってしまい、植物が酸素を作っていたのが作り手がいなくなってしまい呼吸ができなくなってしまう。人工物なら呼吸はしない。だから自然の仲間だと分かるのだ。人工物だらけにするのではなく
うまく自然とのバランスを保持していかなければならない。自然をなくすという事は仲間が消えるという事だ。そうすると寂しくなってしまうのではないか。
確かに人エのものを作って使うことも必要だが、カメラマンはレンズのほこりを払う前に目のほこりを払わねばならないという言葉もあるようにうまく自然を大切にしながら調和をとることが必要だと思う。自然にはいいところがたくさんある。仲間がたくさんいるし、調和も取れている。人間が物を作りすぎたりしなければ絶滅したり絶滅寸前になったりしなかった植物もあったかもしれない。マリモも高度経済成長期に入って工場がたくさん栄養の入った水を阿寒湖に流れ込む川に流したため、たくさんの植物が大きくなり葉を茂らせてしまったために、マリモまで日光が届かなくなってしまいマリモは数が大幅に減り絶滅寸前にまでなってしまった。栄養の入った水を流したことでバランスが崩れてしまったためである。だから、じっくり考えてから出ないと物事を行ってはいけない。何か変なことをするとすぐ壊れてしまうという自然の特性をしっかりと受け入れないとこの先生きていくことが難しくなってしまうかもしれない。