私たちは自然から多くを学ぶ
   中1 あおなち(aonati)  2025年8月1日

  作曲に集中しているとき,不意に音楽というものが自分の知力や感覚では捉えようのない(神秘的な)ものに思われることがある。深刻な絶望とは異質なむしろ居心地良さと温もりさえ感じられる「たぶんそれはなにか途方もなく大きな」諦めのようなものだ。こんな感情は、言葉ではとても伝え難い。期待ということではなく、音が私に語りかけてくるまで待つ。私の、耳と心を全開にする。音は、間違いなく生き物なのだ。そしてそれは、個体を有さない自然のようなものだ。自然から学ぶことはあまりにも多い。色々を聞き逃すことがないように働きかけてくれるだろう。作曲は音と人間との共同作業(コラボレーション)だと思うから、作曲家は音に傲慢であってはならないだろう。私たちは、自然から多くを学ぶべきだ。

 理由一つ目は、自然の物の良さがたくさんあるからだ。

日本の慣行農法は、海外からのF1種に依存している。F1の種からは子どもが生まれない。つまり、カボチャを食べてその種を畑に撒いても次のカボチャは生まれないということだ。昔は、自然の食べ物こそが副作用のない天然の万能薬だった。しかし、「楽に」「早く」「大量に」を目指した食は、本来の力を失い害にさえなっている、と言われる。F1種で育った、均一で虫も食わない野菜は、はたして健康な体を作るのだろうか。それに対して、自然の種である固定種、在来種から育った野菜は自然と人間の健康を第一に考え、土の微生物を生かしている。農薬、科学肥料を使わないことで野菜本来の栄養をしっかり蓄え味の濃い野菜が出来上がる。何より、自然の種は命をつないでいくことができる。次のカボチャが生まれるのだ。自然は何より大切なものだから自然と関わる一つ一つの行動に注目して地球に一生住めるように自ら行動していきたい。

 理由二つ目は、人間は自然のパワーを得て自分らしく、人間らしくなっているからだ。最近は、アスファルトの道しか見かけなくなってきている。人間が自分らしさを取り戻せるのは、結局自然の中だと思う。それにも関わらず自然の状況を無視し、アスファルトの道を広げる。まさに、自分の首を自分で絞めているようだ。小学生の頃、母とよく山登りに行っていた。山登りといえば少し急な坂が続き土と石が混ざったでこぼこの道を

「足やばーい」

と言いながら進むものだ。しかし、予想は大外れ。山の道もアスファルトでできていて、でこぼこではなく平らな道だった。アスファルトの硬い坂は、何か物足りない感じがある。ただただ坂登りをしただけになってしまった。運動好きだからもっとハードな道を求めるのか、いやそうじゃない。誰もが山登りで感じるのは自由さと生きている実感だ。やはり人間にとって自然は、欠かせないものである。これからは、自然のありがたみを常に感じていたい。

 確かに、自分たちがより良い生活を送れるように畑や工場を増やすことも必要だ。しかし、「カメラマンはレンズのほこりを払う前に目のほこりを払わなければならない」という名言があるように、自然との一つ一つの関わり方を、私たちは本来の心でよい方向へと変えていかなければならない。これからの自然との触れ合いに僕も注意したいと思う。