価値観を押し付けない
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 貧困な層の定義として使われるのは、一日当たりの生活が一ドルという水準である。アメリカの原住民の社会には、静かで美しく豊かな日々があったが、住み、自由に移動したことによって共同隊を解体されたときに不幸となりるとともに、貧困になっていった。僕たちは、今一度豊かさの意味を考え直すべきだ。

 そのための方法として第一に、個人の価値観に違いがあることを認めることだ。もし仮に、個人の考えや感じ方を尊重せずに日々を過ごしていたらどうなるだろうか。たとえ、仲のいい友達や家族においても、ある一定の価値観に強制されていては、居心地が悪いと思う。さらに、居心地が悪いだけでなく、友達と遊んだときにも、価値観の違いを許容できない状況になると、仲が悪くなってしまうのではないかという不安から、相手の顔色をうかがうことになってしまうだろう。これは、到底楽しんでいるとは言えず、やはりお互いが尊重し合うことが必要不可欠なのではないか。では、なぜそこまで価値観を認め合うことが大切なのだろうか。それは、人がそれぞれ異なる環境や経験を通して価値観を形成してきたからである。つまり、生まれ育った場所や家族の習慣、学校や趣味の仲間との関わり方など、あらゆる要素がその人の考え方や感じ方に影響を与えており、それぞれの人専用の価値観が出来上がっているのである。したがって、他者と自分の価値観が異なることは、ごく自然なことであり、むしろ当然のことなのではないか。

僕もこの価値観のずれを感じたことがある。それは、学校で文化祭の出し物を決めるときのことだった。意見が二つに分かれ、どちらも譲らずに話し合いが続いた。普通なら、十分に意見交換を重ねて一つに決めるはずだが、そのときはなかなか結論が出ず、一方のグループがもう面倒だから譲ると言い出してしまった。しかし、あまり納得していないような様子で先生が間に入り、それぞれの考えを聞くことにした。すると、相手の価値観にもそれなりの理由や根拠があることがわかり、最終的にはお互いの意見を融合させる形で解決することができた。このことから、価値観を認めることは単に相手に合わせることではないという点である。むしろ、自分の考えを持ちながらも、相手の意見や感じ方を理解しようとする姿勢こそが、信頼関係を築くうえで重要なのだ。そして、この姿勢があれば、意見の相違は衝突ではなく、新しい発想や成長のきっかけになり得る。結局のところ、個人の価値観に違いがあることを認めることは、円滑な人間関係を築く土台であり、また自分自身の視野を広げるための大切な機会なのではないか。

 第二に、大量消費を推し進める先進国の方法を押し付けずに、多様な開発援助をしていくことだ。確かに、短期的には経済成長率が上がるかもしれない。しかし、資源の過剰利用や環境破壊が進み、持続可能性が失われる危険性が高い。したがって、開発援助においては、相手国の文化や資源状況に応じた多様な方法を選択することが必要不可欠である。例えば、1970年代の「緑の革命」では、高収量の小麦や米の品種がメキシコやインドに導入され、確かに穀物生産量は飛躍的に増加した。インドでは、1960年には米の生産量が約4,000万トンだったのに対し、1980年には6,000万トンを超えたとされる。しかしながら、化学肥料や農薬の大量使用による土壌汚染や水質悪化、そして小規模農家の負債増加という深刻な副作用も生じた。この事例は、単に先進国の技術を輸出するだけではなく、その土地の自然条件や社会構造に合わせた支援が欠かせないことを物語っている。また、近年の国際協力の中には、こうした教訓を踏まえた取り組みも見られる。たとえば、日本が国際協力機構を通じて行っている「草の根技術協力事業」では、現地の人々が持つ伝統的な農法や水管理技術を尊重しつつ、太陽光発電や省エネ型灌漑ポンプといった環境負荷の少ない技術を導入している。これにより、エチオピアの一部地域では農業収入が2年間で約1.5倍に増加しながらも、地下水の使用量を20%削減することに成功している。このように、援助を行う側が自国のやり方を一方的に押し付けず、相手国固有の条件や価値観を尊重した方法を選ぶことこそが、真に持続可能な開発の実現につながるのである。

 確かに、生活の向上を願うことも大切だ。しかし、「援助とは、種を渡すことではない。土を見て、季節を知り、水の流れを感じてから、共に育てることだ。」というように、単に同じことをを押し付けるのではなく、自分や自国の環境・文化・状況を理解することで、本当に実を結ぶ方法になるのではないか。