もぐと焚き火
   中3 かののん(kanonon)  2025年8月1日

 生き物のように焔をあげ、やがて燃え尽きて灰になっていく行くかつての火の姿には、霊的な生命を予感させる存在感があり、すべての人々の心に、火の思い出にまつわるさまざまな感情を呼び起こしたものだったが、そんな人の対話さえ、最近では次第に忘れられていく。いわば、神と悪魔を兼ね備えたような、そんな火を、いつでも好きなとき、好きな場所で、好きな目的のために使えるように制御可能なものにするために、人類は人格闘し、火に学び、燃焼を制御する様々な知恵を発明してきたのだと言える。こうして、いまや熱の機能としての現代の「火」は、一方では飼い慣らされた従順なしもべであると同時に、他方ではいつどこで暴走するかしれない不気味なダモクレスの剣と化してしまっているのである。私は、便利さに頼り過ぎず、生きる力となる知識や知恵を、自分の経験を通して身につけていきたい。



 そのための方法としては第一に、便利なものに頼らず、自分の手足を使うことである。私は、ゴールデンウィークになると、友達家族と毎年のようにキャンプに行く。キャンプでは、虫取りをしたり、走り回ったり、バーベキューをしたりなど様々なことができるが、やはりいちばんの楽しみは焚き火だ。どんな家族とキャンプに行っても、大抵私の父が火起こし係になる。私は上手くないが、せっかくキャンプに来たのだからと、ライターやマッチではなく、火打石で0から火をつけたり、火吹き棒を使ったりする体験を通して、火のありがたみや難しさを実感する。そして、我が家の愛犬もぐも、キャンプに行くと父の膝の上にじっと座り、炎を見つめている。犬にとっても炎にはリラックス効果があるそうで、心拍数が落ち着くというデータもある。飼い主と炎を囲むことで親密さが増すとも言われていて、火は人と動物との心をつなげる存在でもあるのだ。



 また第二の方法としては、学校教育においても、机上の勉強だけではなく、実体験に基づく学習を取り入れていくことである。例えば、祖父母の家には昔ながらの暖炉があり、暖炉の火を燃やすのが趣味な祖父は、仕事の合間に薪を割ってはストックしている。暖炉に火がつくと、部屋に炭の燻した匂いが広がり、火花が飛んでくることもある。しかし、その少し危ないところも含めて、火の温かさや温もりを全身で感じられるのが薪の暖炉の魅力だ。火が消えている時には、犬が暖炉の下に潜って煤まみれになってしまうこともあったが、それも良い思い出だ。一方で、友人の家にある電子暖炉は、モニターに映し出された炎の映像を、リモコンで、色をピンクや緑に変えることもできる。おもしろさはあるが、そこに火本来の存在感や趣を感じることは難しい。やはり実際に火と関わる経験こそが、火の本質や人とのつながりを教えてくれるのだと実感する。



 確かに、一度便利になってしまった生活を変えることは難しい。しかし、パブロ・ピカソの『行動こそが、すべての成功の土台だ。』という名言もあるように、私たちは、自分の手や足を使って、生きるための知識や知恵を身につけていくことが大切だ。近年、オーストラリアで発生した大規模な山火事では、救出が困難とされたコアラが1100匹も射殺されるという悲しい出来事があった。火は人の暮らしを支える一方で、その力を完全に制御することはできず、時に自然の猛威によって人も動物も命を奪われる。また、火の使い方を誤れば、人災にもなりかねない。だからこそ、ただ便利に使うのではなく、その危険性と向き合い、正しく学ぶことが重要だ。知識や経験に基づいた行動こそが、未来の災害を減らす一歩となるのではないだろうか。