かつて火は
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かつて火は、焔をあげる姿や温もりを通じて人々に生命感や思い出を呼び起こす存在だった。人類の歴史は、原初の火を手なずけ、制御しようとする挑戦の連続であり、熱や光を目的別に分化させることで、多様な人工的代替物を生み出してきた。現代では、火は安全で便利な道具となり、都市ガスや電気といった巨大なネットワークを通じて社会の隅々にまで浸透している。しかしその一方で、個人の手に負えない規模に拡大し、暴走すれば大きな被害をもたらす危険も秘めている。火は今なお、人間のしもべであると同時に、潜在的な脅威でもある。私たちの生活は、今や多くの便利さに囲まれている。スマートフォンで知りたいことは数秒で検索でき、欲しいものもクリックひとつで届く。確かにそれは効率的で心地よい。しかし、その便利さに身を委ねすぎると、自ら考え、工夫し、学び取る力が弱まってしまうのではないかと感じる。私は、便利なものを否定するのではなく、それに頼り切らずに、自分を高めていく意識を持つことが必要だと思う。なぜなら、自ら知ろうとする姿勢や向上心こそが、自分らしく生きるための土台になると思うからだ。
そのことを強く意識するきっかけになったのは、美術館での体験だった。これまでの私は、美術館に行ったこともなく、展示されている作品にもほとんど興味がなかった。美術は自分とは無縁の世界だと思い込んでいたのだ。しかし、ある日、親から「一度は行ってみるといい」と勧められ、半ば気乗りしないまま姉と一緒に訪れることになった。 館内に入ると、そこには知っている作品も、名前すら聞いたことのない作品も数多く並んでいた。最初は何となく眺めていただけだったが、間近で見る絵画や彫刻は、写真や画面越しでは伝わらない迫力と繊細さを放っていた。特に印象的だったのは「最後の審判」だ。今まで本や画像でしか見たことのないその作品が、目の前いっぱいに広がったとき、思わず息をのんだ。色彩や人物の表情、描き込まれた細部のひとつひとつが、生きているように迫ってきた。さらに、作品の背景や作者の思いを解説で知ることで、ただ「きれい」や「すごい」では終わらない、ものが心に刻まれた。この体験を通して、私は「知っているつもり」と「実際に体験すること」の間には大きな違いがあることを痛感した。画面の中の情報は、便利で手軽ではあるが、そこに自分の感覚や感情を動かす力は限られている。自分の足でその場に行き、自分の目で見て、耳で聞き、心で感じるからこそ、本当の理解や感動が生まれるのだと思った。そして私は、もっと多くの美術館に足を運び、さまざまな作品や文化に触れてみたいという気持ちが芽生えた。
便利さに流されず、自分で行動する大切さは、身近な生活の中にもある。たとえば、レジ袋の問題だ。レジ袋有料化が進み、エコバッグを持ち歩く人が増えた。しかし、中には「お店がくれるなら使う」「有料だからやめる」といった受け身の考え方だけで動く人も多い。私も以前はそうだったが、海洋プラスチックごみの映像を見て、自分の選択が環境に直接つながっていることを知った。以来、ただ制度に従うだけではなく、自分の意思で「できるだけごみを減らす」ことを意識して行動するようになった。便利だから、無料だからという理由で選ぶのではなく、「本当に必要か」「環境への影響はどうか」と一歩踏み込んで考えることが大切だと感じる。
情報もモノもますます手軽に手に入る時代になっている。だからこそ、私たちはその便利さに流されるだけの存在ではいけないと思う。与えられた情報をただ受け取るのではなく、自分で調べ、見て、考え、行動する。その積み重ねが、自分の考えを持ち、自分らしく生きる力につながるはずだ。便利さを享受しつつも、それに依存しない強さを持つこと。それが、これからの社会で生き抜くための本当の意味での「賢さ」ではないだろうか。私はこれからも、向上心を持って自分を高めていく姿勢を忘れずにいたい。