貧困な層の定義として(感)
高1 あおにま(aonima)
2025年8月2日
貧困な層の定義として世界銀行等でふつうに使われるのは、一日あたりの生活費が一ドルという水準である。一九九〇年には、この貧困ライン以下に一二億人が存在していたという。貧困のこのようなコンセプトは正しいだろうか?貧困は、金銭をもたないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭をもたないことにある。巴馬瑶族の人たちもアマゾンの多くの原住民も、今日この「一日一ドル以下」の所得しかない一二億人に入っているが、彼らの「所得」を「一ドル以上」とするにちがいない政策によって、幸福のいくつもの次元を失い、不幸を増大する可能性の方が、現実にははるかに大きい。私たちは、豊かさの意味を考え直すべきだ。そのために考えられる方法は二つある。
第一の方法としては、個人の価値観に違いがあることを認めることだ。我々人間は同じ人間というグループ、部類だが、みんなそれぞれ違う価値観や意見を持っている。自分にとって最高の環境であっても、友人に理解してもらえないようなことってありますよね。仲のいい友達なのに、同じように楽しめないこともあります。これこそが価値観の違いというものだと思う。つまり、お金がたくさんあるから幸せとは限らない。都市部に住んでいる人間にはお金が必要不可欠なものだが、原住民や山奥に住んでいる人々、文明社会から遠く離れたところで生活をしている人たちからしたら、それは必要ではないかもしれない。その上、お金ではある一定の物を買うことができる。しかし、お金が自分の身が危険な時に身代わりにもなってくれない、雨が降った時に傘の代わりとしても使うことができない、ただの薄い紙きれなのかもしれない。
第二の方法としては、大量消費を推し進める先進国の方法を押し付けず、多様な開発援助をしていくことだ。先進国では経済が豊かで、とても便利な生活を送ることができる。しかし、それがそのまま幸福をふやす結果にはならない。なぜなら、経済発展の裏側には、人々を苦しめた疫病や事件が多発していたからだ。その事件がトラウマなどという心に悪影響を及ぼす可能性が高い。このようなことを少しでも減らすには、経済を豊かにするだけではなく、人々の心も豊かにしていかなければならない。僕は、現代の人たちは楽しい日々を過ごしているかもしれないがそれは外観だけであり、中身は豊かではないと思う。給与が上がり電化製品に囲まれた生活をしながらも、古きよき昔のくらしを懐かしんでいるのはなぜだろうか。
確かに、生活の向上を願うことは大切である。しかし、「本当の豊かさはお金で満たすのではなく心で満たすのである」という名言があるように、貨幣に置き換えることの出来ない自分にとっての本当の豊かさを常に問い直していくべきである。