自分の頭で考える
中2 あかるら(akarura)
2025年8月2日
子供の頃に誰に迷わなかったのは、地図を使わなかったからではないか。地図の代わりに、習慣によって獲得した目的地までの道筋や情報に忠実に行動する限り迷いにくいのだ。これは人間だけでなく動物においても言えることである。外から入ってくる情報は、正しく使いこなしてこそその真価を発揮する反面、使い方がきちんと身に付いていなければ逆の結果に繋がる危険すらある。しかし、自らの経験によって手に入れた情報は文字通り定着したもので、無意識のうちに行動に繋がっていくのだ。
他人の情報を利用することは大切だ。自分の一生の中で体験できることは限られている。だからこそ、他者が作った情報を活用することで自分の考えを広げたり深めたりすることができる。私の学校では頻繁にエッセイ課題が出されるがその多くが「なぜ人は人を助けるのか」といった抽象的なテーマが多い。中学生として知識が増え、視野が広かったとしても自分一人の力だけで結論に辿り着くことは困難だ。そのため本やメディアで「他人の情報」に触れ、それぞれの分野に精通する人々の話に耳を傾けることで文を補強したり深めたりしている。読書に関する言葉に「読書とは自分の頭で考えることではなく、他人の頭で考えることである。」というものがある。もちろん自分の頭を使って考えることは大切だ。これが文を作る上での土台となる。しかし作文やエッセイにはしっかりとした土台だけでなく付加的な情報や新たな発見といった肉付けが必要だ。これが本を通して「他人の頭」で考える中で知った情報である。本やウェブサイトのデータや考えは文章を深め、広ける。もちろん明確な引用を書きルールに則らなければその真価を発揮することはできない。しかし、常に正しい情報を適切に活用することで広がる可能性は大きいのだ。
しかし、自分の経験から得た知識を生かすことも大切だ。生かすことによって物事への応用力が身に付き、より定着するからだ。では自分に経験や知識を生かすにはどうすれは良いのだろう。初めに述べたように他者の情報を活用することも良いが、自分で経験する、つまり五感を使い、体を動かしながら何かを学ぶことも必要ではないか。読書をしている中で読み方や意味が分からない言葉に出会うことがある。そのとき、私は辞書かインターネットのどちらかで調べる。時や場合に応じてどちらにもメリットやデメリットがある。辞書はスマートフォンに比べると持ち運びにくく、いつでもどこでも手軽に調べることは難しい。しかし見当をつけてページを開きーページ、一行ずつ目や指で字を追い、つまり身体を使って調べることができる。一方インターネットであれば、辞書のようにページをめくり、自分で探すという必要がなく、キーをいくつか打つだけで候補を挙げてくれる。この機能は便利な上、調べることにかかる労力が少ない。しかし辞書での検索は時間がかかるため根気よく調べる必要がある。しかし見つけた後の達成感や言葉の定着のしやすさは辞書の方が大きいだろう。スマートフォンで調べた言葉は五分もたつと頭から消えてしまった経験が何度もある。辞書もインターネットも他者の情報だが、自分の経験から得た知識を生かすことと同じである。定着しやすいということはつまり、生かしやすいということだ。現代では経験しなくとも臨場感を持って知ることのできる情報が多い。しかしこのような時代だからこそ身体的な動きを取り入れることで、実のあるスキルを培うことができるのだ。
確かに他人の情報を活用していくことも、自分の体験で方法を見出すこともどちらも大切だ。しかし最も大切なことは知ったり体験から学んだりした後、自分の頭で振り返り、考えることだ。「学びとは、つまり人生の中で理解したと思っていたことを新しい形で突然、理解し直すことである。」という言葉がある。一旦立ち止まっているようだが、この時間に人は大きく飛躍する。私の学校では授業や学期ごとの振り返りを書くことが多い。より真剣に、やったことや考えたことをまとめることで記憶に定着させていきたい。