生きもののように焔をあげ(感)
中3 あきえよ(akieyo)
2025年8月1日
かつての原初の火は、個人のレベルで向き合って対処することができたが、このように社会化されてしまった現在の火は、時に個人の知らぬところで暴発し、ネットワークの規模が大きくなるほど、個人の手に負えないものになってしまう。こうして、いまや熱の機能としての現代の「火」は、一方では飼いならされた柔順なしもべであると同時に、他方ではいつどこで暴走するかしれない不気味なダモクレスの剣と化してしまっているのである。私はこの文章を読んで、自らの身をもって生きるための知識や知恵を習得していきたいと感じた。
そのための方法としては第一に、便利なものに頼らず、自分の手足を使うことである。実際自分の感覚でも、インターネットで検索して意味を知った言葉よりも、その場で体験して覚えた言葉の方が、記憶に残りやすい。こう強く感じたのは、私の後悔した経験からきている。というのも、私は数カ月前レポートを書くために、多くの言葉を調べたのだが、そのうち「如実 意味」と調べようとしたところ、もうすでに調べた履歴があったのだ。そのときに私は、もう調べていたことにも驚いたのだが、なによりも調べた言葉を覚えていなかったことに衝撃を受けた。だから、時間があるときにはスマホではなく、辞書を使って言葉を調べることを心掛けたいと感じた。また、毎日家の中でだらだら過ごすのではなく、新しい知識を身に着けるためにいろいろな場所に出向いたり、ものごとにチャレンジする精神を忘れないようにしたいと思った。
また、第二の方法としては、学校教育においても机上の勉強だけではなく、実体験にもとづく学習を取り入れていくことである。机の上だけで先生の話を聞いていても、なかなか「へえ」となって印象に残る学習は少ないと感じるし、話自体を聞き逃してしまうことも起こりうる。だから、理科での実験ように「実際に目で見て経験してみる」という体験を他の教科でも行うべきだ。実際に私は、一学期に理科で化学反応式やイオン、電気分解について学んでいたのだが、授業の進みが早すぎるせいか、授業について行けなくなっていた。しかし、電気分解の理解のために行った銅と塩素の電気分解の実験で、話だけでなく実際に目で見たためなのか、いつもよりも理科の授業が面白く感じた。この経験から、実際の経験に基づく知識は、話で聞くよりも理解が深まると思った。
確かに、自分の力で知恵や知識を身に付けることは時間がかかり、大変であるため便利なものに頼りがちになってしまう。私自身も、何かを調べるときに真偽が分からないインターネットの情報を疑いなく受け入れることがよくある。しかし「私たちの人生は、私たちが費やしただけの価値がある」という言葉があるように、かかった時間と労力は私たちの知力の裏付けを強くするのは確かだ。だから安易に得られる情報にぱっと飛びつくだけではなく、新聞や専門書などに目を通していきながら自分自身の判断力を磨いていきたい。