国際人とは
   小5 あこふゆ(akohuyu)  2025年8月3日

 この長文は、国際人は外国へ何度も行ったことがあるとか、西洋のマナーを身につけているなどということではない。私なりの考えでは、「外国人を相手に自分の考えを伝えたりする心を通わせることできる人」だと思う。



なぜ、論理的思考の訓練が我が国では十分にされていないのだろうか。大学入試を目指している小、中、高の学校教育、その中で習得が偏重されているということ。大きな原因があるのではないか。アメリカの学生を日本の学生と比べてみると、アメリカ学生は知識量では劣っている。しかし論理的に考え表現し行動することにかけては、十分な訓練を受けているから、成熟していて、論争になったりした場合には日本学生はとても太刀打できない。アメリカの学校は生徒を遊ばせているだけのように見えるが、訓練はきちんとなされているのである。それでは、論理的思考を育てるにはどうしたらよいだろうか。普通まず数学教育が頭に浮かぶが、一般的に信じられているほど効果的とは思えない。数学は確かに論理の上に組み立てられているが、論理的思考に最適な教材かどうか疑わしい。むしろ「言葉」を大切にすることが最も効果的なように思われる。この意味で、論理的言葉を大事にするということは、論理的言葉から逃れられないことは明らかに思われる。という長文だ。



 このようなことはわたしでもある。例えば学校の社会の授業は、不思議に思ったことを教科書やタブレットで調べ、最終的に分ったことなどをまとめ、発表する。わたしは、五年生になってから社会が調べ学習になり、初めての社会の時はとてもびっくりした。その時、わたしは、ちゃんとアメリカなどの外国のことも取り入れているんだな。と思った。そしてわたしの学校は、宿題まで自分で決められるようになったのだ。それはまるでアメリカのようだった。しかし、父が小学校や、中学校に行っていたころは宿題がどこまでやってくる。というのが決まっていて、その時、父は、



「めんどくさいな。」



と思いながらやっていたそうだ。そしてわたしが、父に



「もしも宿題が自由に決められたら。」



と聞いたら、父は



「絶対にやらない。」



と言った。そして父の学校は私の学校の社会の授業のような似ているところがある。それは、まず教科書を読んで読んでわかったことをみんなで共有して



「こんなのだったね。」



「いやこんなのだったよ。」



と言っていたそうだ。



 自由にするとやらない人は下がり、やる人は上がる。しかし、やる気がなくやる勉強は意味がない。だから自由は大切にする。ということが分った。