自分でやることの意味
   中3 あえとく(aetoku)  2025年8月1日

 かつて火は、焔をあげて燃え尽きる姿に霊的な生命すら感じさせ、人びとの心にさまざまな感情を呼び起こす存在であった。人類の歴史は、その火を手なずけ、制御可能にする挑戦の連続であり、寒さや飢え、動物の襲撃にさらされた人類にとって、火の使用は大きな救いであった。同時に火は、消えたり暴れたりする恐ろしさも併せ持っていた。人類は火に学び、燃焼を制御する知恵を発明し、火の熱や光を目的別・機能別に解体し、人工的な火の代替物をつくり出した。電子レンジや石油ストーブ、人工照明などの出現により、かつての火のカリスマ性や闇のしじまは消え失せた。火の神はおとなしくなったが、代替物はブラックボックスとなって生活に浸透し、都市ガスや電気など見えない火のネットワークが、原初の火を超える潜在エネルギーを秘めて生活環境を包囲している。現代の火は柔順なしもべである一方、時に暴走するダモクレスの剣でもあるのである。僕は、便利さに流されることなく、生きるための知識や知恵を自らの身をもって習得していきたい。



そこで、僕はまず第一の方法として、便利なものに頼らず、自分の手足を使うことを大切にしたい。たとえば、スーパーで買う野菜ではなく、自分で畑を耕し、種をまき、水をやって育てる。時間も手間もかかるが、そうして得られる食べ物には、ただの「栄養」以上の価値があると思う。それは、自然のサイクルを学ぶことだったり、天候や土の状態を読む経験だったりする。便利な調理器具に頼るのではなく、火をおこして料理することも、また一つの学びである。そうした体験の積み重ねが、生きるための知識や知恵になっていくのだ。

また第二の方法としては、学校教育においても、机上の勉強だけではなく、実体験にもとづく学習を取り入れていくことが重要だと思う。たとえば、理科の授業で「植物の成長」を学ぶならば、教科書で読むだけでなく、実際に校庭で植物を育て、観察し、記録をつける方が、ずっと記憶に残るし、学ぶ意味も実感できる。また、地域の人々との交流や自然の中での活動など、教室の外に出て学ぶことで、自分の感じる力や考える力も養われる。現代の教育では、どうしてもテストの点数や知識量ばかりが重視されがちだが、それだけでは本当に「生きる力」は育たないと僕は思う。

確かに、一度便利になってしまった生活を変えることはむずかしい。便利さに慣れてしまうと、不便なことや面倒なことを避けたくなってしまうのは自然なことだ。しかし、『私たちの人生は、私たちが費やしただけの価値がある。』という名言もあるように、手間や時間をかけて得た経験には、それにふさわしい価値がある。誰かが整えてくれた道をただ歩くのではなく、自分で道を切り拓いていく姿勢こそが、本当の学びにつながるのではないだろうか。僕たちは、自分の手や足を使って体を動かし、自分の頭で考えて行動することによって、生きるための知識や知恵を少しずつ身につけていくことができる。そしてそれは、ただ生きるためだけでなく、よりよく生きるための力にもなると思う。これからの時代、AIや機械がますます進化していく中で、人間が本当に身につけるべき力とは何かを、僕たち一人ひとりが考えていかなければならない。便利さに流されるのではなく、自分自身の足で立ち、生きる力を育んでいきたい。