言葉の歴史
   中2 ゆめある(okamoto)  2025年8月1日

 「ら抜き言葉」をめぐる議論は、ただの言葉の正しさを争うだけの話ではない。そこには、年齢による考え方のちがいや、地域ごとの使い方の差、さらに言葉そのものをどう考えるかという意見のちがいが関わっている。国語審議会は、昔のように言葉の使い方をきびしく決めるのではなく、あくまで「ゆるやかな目安」を示すことにしている。そして、最終的には国民一人ひとりが、自分の使う言葉について考えることが大切だと呼びかけている。

新しい言葉が生まれるのは、時代が変わる以上、自然なことだ。人間だって、赤ちゃんのころは「ばぶばぶ」としか話せなかったのに、成長すれば大人と同じ言葉を使うようになる。社会や生活が変われば、それに合わせて新しい言葉が出てくるのは当たり前だ。たとえば、スマートフォンやSNSが広まったことで、「エモい」や「バズる」といった新しい言葉が多くの人に使われるようになった。これらの言葉は、昔にはなかった新しい感情や状況を、短く分かりやすく表すために生まれたものだ。「ら抜き言葉」も同じように、時代の流れの中で自然に広がっていると考えれば、それを特別に禁止する必要はないと思う。

だが、昔から使われてきた言葉には、長い時間をかけて育てられた美しさや深い意味がある。文化というものは、短い間で作られるのではなく、何百年もかけて少しずつ形づくられていく。だから、良いものは守っていかなければならない。たとえば、日本の昔話「姥捨て山」は、お年寄りを大切にする心を伝える話として長く語り継がれてきた。言葉は文化と深く結びついていて、古い言葉にはその時代の価値観や知恵が込められている。フランスでは「アカデミー・フランセーズ」という機関が、美しいフランス語を守るために活動している。こうした取り組みを見ると、古い言葉や表現を残していくことの大切さがよく分かる。

新しい言葉を受け入れることと、古い言葉を守ることは、一見すると反対の立場に見える。しかし、どちらか一方だけを選ぶ必要はない。大事なのは、その時代に合った形で言葉を生かすことだ。ある言葉は自然に使われなくなり、また別の新しい言葉が広まっていく。そうした変化は止められないし、無理に止めようとすると、かえって言葉が不自然になってしまうこともある。だから、「既にあるルールを無理やり守ること」よりも、「現実に合わせてルールを変えること」のほうが大切だという考え方がある。これは、言葉を生かすためには欠かせない視点だ。結局のところ、言葉は人とともに生きている。時代が変われば、人の生活も考え方も変わる。それに合わせて言葉も少しずつ形を変えていく。その変化をただ批判するのではなく、なぜそう変わるのかを理解し、必要に応じて受け入れる心構えが大事だと思う。そして、どんな時代でも、自分の言葉に責任を持ち、相手に正しく気持ちを伝えられるように工夫することこそが、言葉を大切にするということではないだろうか。