日常に欠かすことのできない人の笑顔を作ってくれるユーモア
小6 とやちな(toyatina)
2025年8月3日
第二次世界大戦の時、ドイツ空軍の激しい爆撃によって建物を大破されたロンドンのあるデパートが、
「平常どおり営業。本日より入り口を拡張しました」というカンバンを出した。他国では、人の悪口を言うとき、ばか、臆病者、極悪人などと呼ぶが、イギリスでは『ユーモアのセンスが無いね』と言うのである。ただ、ユーモアというのは論理で解釈できるものではなく、それを受信する感性の装置をどうかであり、どんなに頭が良くても、いくら知識があっても、それだけではだめということである。ユーモアというのは、ユーモラスと感じるか感じないかというセンスの問題になるわけだ。
僕の家には、ユーモアであふれている。以前、叔母が旅行のお土産で51歳からの醤油という減塩醤油を買ってきてくれた。醤油が欲しい際には、皆
「51歳取って」
と言う。夕飯の時のことだ。醤油を約半分使い切っていて、そのことに対して祖母が
「もう21歳分も使ったのか」
と言った。そうしたら、祖父も乗っかり
「あと、30歳で使いきっちゃうのか」
と言った。その時の食卓はユーモアと笑いで包み込まれていた。大げさに言い過ぎかもしれないが、僕の家族は、一つの話題で2つ、3つ冗談が出てくる。そんなようなユーモアを僕はいつか出してみたい。
僕の家族の会話は、7割がユーモアのある面白い話だ。残りの3割は、姉が話してくれる、頭がよさそうな人が話していそうな話題だ。そんな僕の家族の会話のユーモアがなかったどうなるのだろうか。僕は、そんな日が一日たりともないので、どうなるか分らないが、それはとても非日常的で不自然でたいくつな会話だとも思う。もしそんな状況であったら、すかさず僕が冗談を言うであろう。だから、僕の家族の会話にはユーモアであふれているのだと思う。また、冗談の通じない人がいたとしよう。そうしたら、僕は会話をするのを諦めそうになるが、通常の会話より、ユーモアをより盛り込んで、ユーモアのすばらしさを伝えようとすると思う。
ユーモアというのは、人間にとって会話を何倍も面白くしてくれるものである。また、ご飯を食べることのように、人間の生活に欠かすことはできない存在でもあると思う。これからは、会話でユーモアのあることを言うのならば、ある一部の人しかわからないようことはいわず、誰もがわかるようなことを言うことを意識していきたい。そうして、色々な人が笑顔になってほしいと僕は思う。