もう一つの体験は(感)
高1 あおにま(aonima)
2025年8月3日
ここでもまた「出来事」はそれだけで十分に悲惨だ。しかし単なる悲劇ということをこえて、同じ暴力的抗争という事態の中で、なぜイスラーム教徒だけが仕事を失うことになったのか、なぜ彼が危険を冒さなければならないような状況に陥ったのかということを考えれば、たとえ暴力的抗争という特別な事態でなくても、日頃からイスラーム教徒がヒンドゥー教徒に比べて不安定な職にしか就いておらず、何かあれば職を失いやすいような境遇にあったという社会的状況が見えてきただろう。飢饉だからといって皆が飢えるわけではなく、暴動だからといって誰もが殺されるわけでもなく、このように同じ状況下にあるからといって、誰にでも同じように惨禍がふりかかるわけではないのだ。イスラーム教徒だというだけで職を失ってしまった男などはその例だろうし、また「外国人出稼ぎ労働者」として異国で生活しなければならない人たちの多くは、「権利」や「法」という点で仮に百歩譲って平等だとしても、普通はその権利を行使できたり、法を持ち出してものごとを要求したりすることができるような立場にはいない。だから私たちは、本当の意味での平等を実現していくべきである。そのために考えられる方法は二つある。
第一の方法としては、慣習や思い込みを考え直していくことだ。戦争後、男女平等ということが重視されてきた。それでも、人間の底には根強く残る男女の不平等というものがある。これは男女平等となる前に、どれだけ不平等に扱われてきたのかの象徴でもある。現代では、男性が育休休暇が取れるようになったり、女性が政治に参加ができるようになり幅広い分野で男女が平等に働けるようになってきている。しかし、やはり家でご飯を作ったりお茶を入れるのはお母さんや働くのはお父さんなどという習慣があるので、完全に不平等がなくなったとは言い切れない。
第二の方法としては、国際理解をすすめる為に情報の普及をはかることだ。日本では、もめごとを「相手よりも強い力」や「他人の力」で、解決してすますアニメが多い。つまりゴリ押しで物事を解決したり、相手を降伏させる方法をよく目にする。このやり方では誰かがいつか傷ついてしまう。だから人と人がじっくり向き合い、どうすれば問題が解決するのかを考える方法が一番最適だと思う。日本では誰かが悪い、良いなどとはっきりと決める文化がある。この方法は時と場合によっては必要になってくると思うが、問題の本質がどこにあるのかを真に考えるような情報の開示が必要だ。
確かに、法的な平等を確保していくことも大切だ。しかし、お互いの文化や歴史を尊重し合い生きていくべきだと思う。