無駄から学ぶこと
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皆さんは、「目あきのおごり」という考え方をしたことがあるだろうか。目が見える人は、何でも理解できると錯覚しがちだ。目が見えても、すべてを理解できるわけではないし、その情報の多くを記憶することも難しいだろう。一方、盲人は目で見ることはできなくとも、心の眼を使って世界を感じることができる。つまり、体全体を使いこなせるのだ。しかし、だからといって「見える目」が無駄なわけではない。私の目もまた、物事を理解する手がかりとしては十分に役立つのだ。私たちが当たり前にやっていることの中にも、目を使っている場面はたくさんある。例えば、友人と会話している時、表情を読み取ることで気持ちを理解できる。私は、物事の本質を見るためには大切さや価値を自分で見出すことが大切だと思う。
私が読んだことのある絵本「ごろはちだいみょうじん」は、この考え方をわかりやすく示してくれる。主人公の「ごろはち」が物語の最後に町の人々の犠牲になったことで、町の大明神として崇められ、人々の心に安心とつながりを与えたのだ。最初のいたずらは村人にとって迷惑だった。しかし、困った存在があったからこそ、町の人々は互いに協力し合い、思いやりが育まれたのだと思う。些細な行動が、全体の調和につながるということを、この絵本は教えてくれた。
一方で、無駄なものは排除すべきだという考え方もある。現代社会では、効率や合理性が重視され、時間や資源の浪費は最小限に抑えられるべきだという考え方が大半を占めている。例えば、不要な施設やサービスの削減によって、行政コストを抑えたという実例がある。総務省の調査によれば、公共事業の見直し・統合により、年間で数百億円規模の経費削減が可能となったケースが報告されている。また、企業においても、不要とされた部署を整理したことで、年間数十億円規模のコスト削減を実現した事例がある。こうした取り組みを行い、無駄を徹底的に排除することで生産性や安定性を保つことができるのは確かなのだ。社会や個人に「必要なもの」を優先して考えれば、必然的にこのような結果になるのも自然だ。
確かに、「必要なもの」も「無駄なもの」もどちらも大切だ。しかし、一番大切なのは無駄なものかどうか見極めることではなく、そのものの中に価値を見出せるかどうかだ。損得や効率だけで世界を測るのではなく、非効率など、一見無駄に見えるものに価値を見いだし、優しさをもって関わることこそが、大切なのではないかと私は思う。日本の茶道では、一見すると非効率に見える所作を大切にする。客をもてなすための時間や動作には、相手を思いやる心が込められているのだ。こうした伝統に触れると、効率だけではない価値が存在することに気づかされる。私はまだまだ、できていないことがあるが、見えるものにも見えないものにも価値がないか探ろうとする姿勢を大切にしていきたい。皆さんも、伝統に触れる機会があれば、積極的に参加してみてはどうだろうか。