日本の猫は泳げない
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 イギリス人は、「ユーモアのセンス」というものには特別のプライドを持っているし、また、それについて敏感である。国民性の違いと言ってしまうとそれまでだが、日本ではユーモア感覚は、それほどまで高く評価されていない。「お互いもっとユーモアの感覚を磨こう」というより「人間マジメに、一生懸命に働くのが一番だ」とい言葉の方が、説得力を持つのではないだろうか。真面目な国から真面目を広めにやってきた人もいる。そのような人は、欠陥人間と呼んでもいいかもしれない。自動車のハンドルにあそびがあるからこそ、自動車を安全に運転することができるのだ。ユーモアは命を運転して人生を渡っていくのに欠かせないものなのだ。

 ユーモアといのは面白いという意味を持っていると私は考える。例えば、ただただ事実だけを並べた説明文よりも、ユーモアの入った説明文の方が私は読みやすいし、感動を受けると思う。なるべくユーモアを入れてみたいなと思うが、ユーモアを入れるのは猫に水泳を教えることくらい難しい。中には珍しく泳ぐ猫もいるが、日本の猫にはユーモアは厳しいのだ。ユーモアを持っているといろんな人と交流しやすくなる。初めはやはり印象が大事である。色々な面白い話や相手と同じ趣味があることで相手と共鳴するのだ。私も、ユーモアがあって、自分を笑わせてくれる友達のところへよく行くなと思う。お互いの冗談が通じ合う友達が一番大事だと思う。

 イギリスのユーモアは皮肉を込めるという。それなら、日本のユーモアは京都にあるのではないだろうか。例えば、元気な人ですなぁと言われたら一見、活気がある人ですねみたいに感じるかもしれないが、うるさくて迷惑だという意味にも使われるらしい。こういった皮肉を込めた言葉を使うのは、歴史的な文化の深さが関係しているらしい。京都は長い間、日本の政治・文化の中心地だったため、上品で格式高い雰囲気が求められていて、直接的な言い方は「無礼」や「品がない」とされてきたらしい。実際京都にいけば分かると思うが、京都には歴史的な文化が沢山あり、守られている。実際歴史の文化のために高い建物を建てることは禁止されている。つまり、京都の皮肉には歴史が込められていると考えられる。ある意味これもユーモアの一部ではないだろうか。

 人間にとってユーモアとは社会で生きていく中で必要不可欠なものだと思う。「ユーモアがある人」とは、人を思わず笑顔にするような上品な面白さや会話能力、機知の効いたしゃれがある人のことを指す。「ユーモアがある」の「ユーモア」“humor”の語源はラテン語で「体液・湿気」を意味する“humor”にあり、日本語では「ユーモア」は「ウィット(知的な滑稽)」と対置される。「感情的な滑稽(こっけい)・おかしみ・諧謔(かいぎゃく)」として理解されてきた。「ユーモアがある」というのは、「下品ではない一定の品を保ったしゃれ(機知)や会話、動作などで人に笑いを引き起こすおかしみの能力・性質・センスがあること」を意味しているのだ。ユーモアはストレスを軽減し、リラックスした環境を作る助けとなる。人に笑いを届けられる素敵なユーモアを持っている人になりたいと私は思う。