分断と文化
高2 ばにら(tokunaga)
2025年8月2日
分断された家は立つことができない。それは一家庭でも、一国家でも、あるいは人類文明についてでも同じことが言える。各人がいがみ合う家は、遅かれ早かれ、崩壊する運命にあるのだ。1858年、アメリカ南北戦争を目の当たりにしたリンカーンが訴えたこの言葉が、私の頭から離れない。
そして、反グローバリズムの言説が、近年激しい論争を巻き起こしている。米ソ冷戦終結後、世界の潮流はボーダーレス、国境をなくした「地球市民」的な価値観に向かっていった。急速な経済市場の国際化、欧米諸国の大胆な移民政策、そしてインターネットの普及。現在私たちは、人類史上最も外界と繋がっているのである。しかし、この空気感は2010年代中盤、特にトランプ大統領就任から、徐々に否定されるようになった。経済の低迷と国際情勢の悪化。行き詰まってしまったかのような、漠然とした不安・・・これらの原因が「行きすぎたグローバリズム」にあると糾弾し、むしろ民族国家への回帰を求める。このような主張が強い支持を獲得しつつある一方、「ポピュリズム」「極右」「排外主義」と大きな批判にさらされ、世論を二分している。国境をなくすか、それとも強化するか。人種という概念を砕くか、保全するか。他文化と融和するか否か。このような対立構造が激化し、分断が広がり続ける世界で、私たちはこれにどう対処すれば良いのだろうか。この複雑な命題に対し、私はある体験を通じて向き合おうと思った。
この夏、毎年スイスで開催されるヴェルビエ音楽祭に参加した。そのプログラムの一つである十八歳以下の音楽学生を対象にしたジュニアオーケストラは、スイスの山中のリゾート地で三週間にわたり、名だたる音楽家と同じ枠組みで練習し、公演する。その音楽体験はさることながら、同等にーーあるいはそれ以上にーー印象に残ったものがある。世界各国からやってきた参加者との交流自体だ。
日常世界から切り離された空間で、共同生活を営んでいると、それぞれの人の性格が浮き彫りになってくる。その中で、各国の国民性も面白いほど反映されるのだ。スペイン人は毎晩のようにフィエスタをしていたし、イタリア人は夜食に大盛りのパスタをみんなに振る舞っていた。それが中国人と台湾人になると餃子になる。食事に米が出されると、アジア系は一斉にその批評をしだす。仏頂面のドイツ人の傍でフランス人は議論に花を咲かせ、アメリカ人はとりあえず仲間とふざける。極め付けはイギリス人で、彼女らは「イギリス人は信用ならない」と同族嫌悪しあっていた。まるでエスニック・ジョークから直接飛び出してきたような光景である。
だが、振り返ってみれば、それぞれの国民性はジョーク以上の役割があった。それは、各人の文化的背景を裏付け、互いのアイデンティティへのリスペクトを促す効用である。たとえば、自らの国の徴兵制についてスイス人や韓国人が語ると、その意見はとても貴重なものに感じるし、徴兵制の無い国出身のものに一考を促す力がある。このように自身の帰属を認識にしているからこそ、自身の文化圏外の場においても一個人以上の存在に見られるのではないか。これは盲目な愛国論であってはならず、自分自身を構成する一要素としての率直な認識であるべきだ。そうして初めて、重みを持った人間同士としての対話が可能になるのではないか。
しかし、そもそも国際的な交流をするには、出会うきっかけが必要である。そのためには、広範囲に定着した「共通意識」の存在が必要だ。私たちの場合、それが音楽であった。「音楽は世界の共通語」と言うように、たとえどれほど異なる文化圏出身でも、少なくとも音楽一点については共鳴し合える。そして、この共通項を生かして一緒に音楽を作り上げていく過程こそ、仲間意識を育む重要な感覚なのだ。
元来クラシック音楽は欧州文化の一つではあるが、それが世界規模で広まった結果、地域を超えた芸術分野になった。だからこそ、このようにして国境や言語による壁を凌駕し、人々を集め統合する潤滑油・接着剤となりうるのである。同様に、その他の芸術・娯楽ーー文学、絵画、スポーツ、映画、アニメ、ポップスーーこれらもまた、特定の地域圏の枠を超えて広く承認される、言うなれば「地球文化」だ。インターネットの普及とともに、世界が急速に繋がる中で、このような「地球文化」はバーチャル空間における人々の交流に大きく寄与する。そして、そのインターネット上のコミュニティからまた独自の「文化」が生み出されていくのだ。これらは特定の公権力に属さない。だからこそ、余計な思想的しがらみにとらわれない、自由で開かれた交流が可能になるのである。
だからこそ、分断なき人類文明を築くためには、個々人同士のミクロな交流が先手にあるのではないか。そのためには、「国際化」「地球市民」などという思想の介在は不要である。また、むやみに言語や国境、政治・金融体系を一体化するのも得策ではない。必ず不満を持つものが現れ、その反動が増大した暁には社会に大きな亀裂がはしる。それゆえに、むしろ普遍的性格を持ちながらも、同時に個人性とも直接結びつく芸術・娯楽を積極的に共有するべきではなかろうか。
近年激しさを増す極端な対立構造と、それに伴う分断。この構図自体は歴史上よく繰り返された光景だ。それが現代社会においてはグローバリズムの是非を巡って現れている。だが、歴史が証明するように、このような事態に対する特効薬は見当たらない。諸所の経済問題、人権問題、移民問題等等を一旦解決したところで、また別の問題が噴き出し、終わらないイタチごっこになってしまう。だからこそ、従来の経済・思想重視のグローバリズムを見直しながら、新たな形の人類文明を思案するべきではないか。私にとっては、その一番の鍵となるのが「文化」である。その文化とは、一つには個人を構成する局地的な文化アイデンティティだ。歴史上積み重なってきた遺産を認識し、それが己に、そして他者にどう影響しうるかを知るべきである。もう一方は、世界的に共通しうる大域的な「地球文化」だ。芸術・娯楽を通じて、利害の追求から切り離された、個々人の出会いの場を提供すべきである。つまりは、これら二つの「文化」を活用し、まったく異なる共同体の人間同士が、互いの差異を尊重しながら共通項を分かち合うのである。
もちろん、これは諸問題に対する劇薬ではない。あくまで分断状態を予防・緩和するワクチン程度だ。しかし、そのワクチンが最悪の事態を回避する最終防衛にもなりうるのだ。1944年8月25日、占領下パリに迫る連合軍を見て、ヒトラーはこの街を灰にする命令を下した。だがパリ司令官のドイツ将校はこれを拒否した。花の都を踏み躙ることは出来なかったのだ。その文化的栄花を最後の砦にして、パリは燃やされずに済んだのである。分断された家は立つことができない。だからこそ、その家の基礎として、文化的絆という強固な土台を作り上げなければならないと、私は主張する。