消極的から論理的へ
小5 あけのの(akenono)
2025年8月3日
国際人とは、外国の人相手でも自分の意見を伝えることができる人のことだ。論理的に思考し、それを論理的に表現することが、国際人になる条件の最も大切なことだ。しかし、日本では論理的思考を育む教育があまり行われておらず、主に知識を頭に詰め込むような勉強、暗記が多い。それでは、論理的思考を育てるにはどうすればよいのか。数学のように決まりきったいくつもの公式のうちから場合によって選ぶことよりも、言葉を大切にする国語教育を充実させることだと考えられる。
学校の勉強は、暗記をすることが多い。特に社会は、海流や都道府県、年号などを覚え、それを応用することが多い。国語でも暗記をすることは多いが、私の学校では話し合いや学校の図書館で調べる時間がある。例えば、言葉の使い方を勉強したとき、AさんとBさんのけんかにつながった原因は何かを4人班になって話し合い、この言い方が悪かった、とみんなで話し合って結論を出すという授業があった。また、自分が求めているタイトルの詩を探しに図書館へ行く授業もあった。そのように、自分で答えを探す勉強のほうが、ただ覚える方よりも身について、自然に応用することができると思う。
アメリカでは、自分の意見を伝える「エッセー形式」が基本で、勝ち負けや正確さよりもどうしてこう考えるのかが評価される。対照的に、日本では小説や物語への共感が求められ、正確さや協調性が評価される。それには歴史的なことにも理由がある。一つ目の理由として、日本は昔から農耕社会で、コメは必要不可欠だったこともあり、コメを分け合ったりして争いを避けていたということがある。実際に、コメが原因で争いが起きたこともあり、その争いに負けるとコメが食べられなくなってしまったこともあり、そのような村が増えて、現代にもその影響があると考えられる。二つ目の理由として、バブル時代崩壊があげられる。バブル崩壊が起きたことで、たくさんの会社が倒産し、かなり大きな被害を受けた。そんな中、自分の意見をあまり言わず消極的、そして正確な社員が重宝され、日本人は全体的に消極的になっていったとも考えられる。このような理由から、日本では正確さと協調性が求められるようになった。
日本人は、歴史的な理由もあり、消極的で、論理的思考を身につける習慣がないことが分かった。私も、学校の話し合いで、私はこうしたいという意見が言えずに悩んだことがたくさんある。しかし、これからは、言葉を身に着け論理的に考えて、それを自分の意見としていえるようになりたいと思う。例えば、授業の一環でグループになってプレゼンテーションをするとき、プレゼンテーションの構成、やりたい係などを遠慮せずに、これがこうだからこうした方がいいと思うと言えるようになりたい。
「今日の夜ご飯、何がいい?」
「昨日はお肉だったから、魚がいいかな」
まずは日常の小さいことから。自分が思う理由をつけて、質問に答えたい。