調和するとは
中2 のんのん(auhoha)
2025年8月4日
いうまでもなく、生態系には、荒唐無稽なこと、ばかばかしいこと、無駄なことが満ちている。それは神話・昔話と同じことである。しかしながら、ここ十数年の間に生態学者や、動物行動学者は、そうした一見無秩序な関係の中には、調和して生きるために自分の持っている原則を大胆に変える生物の叡智が働いていることを見つけ出した。たとえば色は、ほんのわずかな色の混ざり具合で名前が変わったり、違う色として判定されるが実際はっきりと分かれている色でないと見分けるのは難しい。同じだともいえる色同士はくっつけてまとめればいいと思うがそれは違う。少しの違いでもそれはその色にしか出せない味わいと作品の魅力を作っているからだ。あいまいにみえる色同士の境目もすべてその色にしか出せない調和を作り出している。近くの公園に生えている草花も緑や赤色と大きくくくってしまえばそれまでだが、それぞれ全然色が違うことがわかるのだ。このように一見無意味と思えるものだとしてもそのもの自身の役割をしっかり抱えているのだ。
快適に生きるためには自分の思いを伝えるということを考えておくことが必要だ。スポーツの世界では、勝ち負けがはっきりつく僅差でも大きな差があったとしても勝ちは勝ちになる。このように少々の誤差は考慮せずびしっと決めることは大切だ。私は優柔不断な性格で、悩んでいる間に欲しかったものをほかの人が買ってしまい、あの時買っておけばよかったと深く後悔することが多々ある。逆に、話し合いなどで自分の意見がばっちり決まっているときは、その話し合いの結果意見が通らなくても、後悔することが少ない。やらずに後悔するよりやって公開することがいいというのはこういうことだろう。このようにあいまいな意見をもって自分のやりたいことや欲しいものに揺らぎが生じると高確率で後々公開する羽目になってしまうのだ。だから、複数の選択肢に悩むことがあるときに自分の意見を確立させ、しっかりと線引きをすることは重要なのだ。
しかし、はっきりと言い表せないものが悪ということではない。人は想像以上の感動や歓喜を体験したときに言葉で表すことができなくなる。その時のこと、つまり自分の高揚する気持ちを「言葉」として外に吐き出すのはとても難しい。私も昔沖縄で見た海の美しさを完全に表現することはできない。だが、そういうものがあるからこそ言葉にできない美しさが生まれたのだ。それ以外にも、日常生活で雑草を見かけることはごく普通である。もしかしたら庭の天敵と思っている人もいるかもしれない。しかし、公園や原っぱの横でひっそりと小さく花を咲かせる雑草にもまた何とも言えないほっこりする気持ちがわいてくる。生える場所によっていろいろ考え方が変わってくる雑草は、あいまいな存在といえるだろう。しかし、その絶妙な曖昧さが私たちの心に日常感を与えてくれていると思う。このようにはっきりと言い表せない感じ方も大切にすべきだと思う。
白黒はっきりつけるのはきっぱりと自分の意見が伝えられていいいと思うが、はっきりと言葉にできない思い方を持つことが大切なのであもまた、美の観点としても大切にすべきだと思う。「調和とはぶつかりあうこと」という岡本太郎の名言があるように、自分の思いを相手にぶつけ、逆に相手の意見もしっかり受け止めることが大切なのだ。