自分にとって
   中2 ゆめある(okamoto)  2025年8月3日

 数年前、私は西アフリカのナイジェリアで盲人と出会い、彼から「目あきのおごり」という言葉を教わった。目の見える者は、自分は何でも理解していると思い込みがちだが、実際に見えているのはほんの一部に過ぎないというのである。視覚を持たない彼は、代わりに「心の眼」を働かせ、耳や手や鼻、さらには心の優しさを通じて世界を感じ取っていた。彼が語る昔話は、単なる物語ではなく、自然や人々の暮らしを深く映し出し、私の心を大きく揺さぶった。見えるものだけを頼りにしてきた自分の世界が、急に広がったように思えたのである。

 この体験を通してまず考えたのは、「自分にとって必要なものを優先する大切さ」である。人は限られた時間や力をどう使うかを常に選ばされている。私自身、試験前は部活動や趣味を控えて勉強に集中するようにしている。短期間は我慢が必要だが、その分だけ成果が出たときの達成感は大きい。また、友人の中には、部活動の大会で良い結果を出すために、遊びの時間を削って練習に打ち込む人もいる。そうした姿勢を見ると、やはり人が快適に生きるためには「自分に必要なことを見極めて優先する力」が欠かせないのだと感じる。歴史を振り返っても、人類は便利な生活を求めて自然を開発し、科学を発展させてきた。その背景にも「必要を優先する」という意思があったのだろう。

 しかし一方で、私は「一見無駄に見えるものの価値」も決して軽視できないと思う。実際、受験勉強の合間に散歩をしたり、何気なく読んだ小説に心を打たれたりする時間は、直接の成果こそ見えにくいが、気持ちを切り替える上で大きな意味を持っていた。自然界にも同じことがいえる。花はただ美しいだけの存在に見えるが、実際には虫を引き寄せ、受粉を助ける重要な役割を果たしている。気味悪がられるミミズも土を豊かにし、作物を育てる基盤をつくっている。さらに昔話や神話の中にも、理屈では理解しがたい展開や無駄に思える要素が多いが、それらは人の心を癒し、文化を支えてきた。無駄に見えるものが、実は長い目で見ると不可欠なものになっているのだ。

 このように考えると、重要なのは「必要か無駄か」を単純に区別することではなく、その両方をうまく取り入れることだと思う。必要なものを優先して努力する姿勢は、確かに大切だ。しかし同時に、無駄に見えるものの中にも、心を支えたり新しい視点を与えたりする力がある。存在するものには、それぞれに理由や役割があるのだろう。だから私たちは「これは役立つ、これは不要」と決めつける前に、少し立ち止まってその背景を考える必要があるのではないか。