無駄と効率
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目あきは、何でも見えるために、何でも解ると思っている。しかし、目あきが見ているものは眼前にあるものばかりで、目あきが記憶にとどめるのはその百万分の一にすぎない筈だ。しかし、盲人には確かに眼は見えないが他の器官を使って状況を把握することができる。そのようなことを、ナイジェリアに住む一人の土地の盲人が話した。それらの話は神話学概論をいくら読んでも書かれていない事柄であった。生態系は、荒唐無稽なことで満ちている。しかし、そうした一見無秩序な関係の中に生物の叡知が働いている。それは神話的「優しさ」に見合う筈の生き方である。自然との調和こそ、我々人類が生存し続けるために避けることのできない原則となった。
快適に生きるためには自分の必要を考えていくことが大切である。何事も中途半端に終わらせたり、物事を同時に進めるということは非効率的だ。脳は一つしかないから、一度にできる事柄も一つのみである。よって、一つを集中して取り組むことが大切だ。英語科の宿題でテキストのワークブックが出される。それは、量が多いから計画的に取り組む必要がある。そして、その際に気を付けているのは一気に終わらせるということだ。途中でぼんやりするよりも、その時間をほかの物事、例えば読書などに充てたほうが自分にとって得だからだ。また、快適な暮らしを実現するため人間は洗濯などの「無駄」の自動化、雑草や野花の、都市開発上の「無駄」の排除を行ってきた。
しかし、その無駄なこと、無秩序なことにも良さがある。例えば、睡眠を時間の無駄といって削れば快適な人生は送れない。娯楽を無駄と言い始めれば、仕事ずくめの、つまらない人生となってしまう。グリム童話に「星の銀貨」という話がある。両親を失った貧しい少女、着ている服と一切れのパンだけしか持っていない少女がいた。しかし、道行く途中、出会った人々に自分の持ち物を次々と分け与えた。その結果、何も手元になくなってしまったが天から星が降り注ぎ、地面に落ちると銀貨に変わった。この物語中の、「無駄な善意」ともとらえられる行為によって銀貨に変わり、少女に帰ってくるということで、無駄こそが尊いものになりうると解釈できる。
この世の中は無秩序で無駄なものにあふれているように思え、人はそれを排除しようとする。無秩序もよいし、それを排除する、つまり効率化することもよい。「神はサイコロを振らない」という物理学者・アインシュタインの言葉がある。宇宙にサイコロのような偶然はなく、存在するものには必ず法則や理由がある。そのように、存在するもの、人にはムダとして見られるものでさえ、自然にとっては必要なものであるはずだ。それぞれの事象が歯車として自然を動かしていると考えるとどれ一つとて存在する理由がないものはないはずだ。アフリカにすむズールー人には、このようなことわざがあるという。「私がいるのは/みんながいるから/みんながいるのは/私がいるから」。