生命のつながり
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年月日
映画「地球交響曲」のシナリオハンティングのため、フィンランド北部ラップランドの森を歩いた。ラップランドは北極圏に入り、冬は雪と氷と暗闇の世界となるが、夏は正反対の世界となり、森は草木が一気に芽吹き、花開き、萌える緑に包まれる。ラップランドの夏の森はすべての生命によって奏でられる地球交響曲のコンサート会場である。しかしそれはエアコンの効いた都会のコンサートホールではなく真の野性が保たれている大自然である。私は大自然の中で演奏者のひとりとなるのか、それとも観客のひとりなのかという矛盾した世界の上に立たされる。森に足を踏み入れると出迎えてくれるのは美しい若葉の緑や色鮮やかな草花ではなく蚊やブヨの大群である。その数としつこさは都会生活の想像を絶する。旅人は長袖、長ズボン、蚊よけ帽子をかぶるが、私は撮影のためかぶれない。さらにバリヤーを築けば森と対話する回路を閉じてしまう。森の本当の美しさは五感のすべてが解放されてこそ見えてくる。多様な生命が関わり合い一つの生命のシンフォニーを奏でている。観客席はなく、森の一員として加えてもらわねばならない。蚊が血を吸うのは自然の摂理であり、かゆさも森の楽音の一つなのだ。
そのための方法は第一に、すべてのものが助け合って生きていることに気づくことである。たとえば、森の中では木々が太陽の光を浴びて成長し、落ち葉はやがて土にかえり、微生物や昆虫の栄養となる。さらにその土壌は新たな植物を育て、鳥や動物に住処や食料を与えていく。このように、目には見えにくい循環のつながりの中で、命は支え合いながら存在している。私たち人間も例外ではなく、食べ物や水、空気のすべてを自然から受け取り生かされているのだ。このことに気づくことが、まず大切な出発点となる。
また第二の方法としては、地球もひとつの命として大切に守ろうとすることである。私たちは「自然環境は資源であり利用するもの」という考えに偏りがちだが、近年の気候変動や異常気象を見てもわかるように、自然を傷つければその影響は必ず人間に返ってくる。たとえば、プラスチックごみによる海洋汚染は魚や鳥の命を奪うだけでなく、巡り巡って人間の食卓にマイクロプラスチックとして戻ってきている。森林伐採もまた同じで、開発のために森を失えば二酸化炭素の吸収源が減少し、地球温暖化が加速してしまう。これらはすべて、地球を単なる資源と見るのではなく、命として尊重すべきだということを示している。
たしかに、快適な暮らしのために開発を進めることは必要である。しかし「存在するものには、良いとか悪いとかを言う前に、すべてそれなりの理由がある」という言葉が示すように、自然界のあらゆる存在には役割がある。雑草と呼ばれる植物にも土壌を守る役目があり、害虫とされる昆虫にも鳥や小動物を支える存在意義がある。人間もまたその生態系の一員であり、大きな調和の中に生かされている。だからこそ、人間は自然を敵視するのではなく、共に生きる道を選ばなければならないのだ。