もめごとは無くならないが
    ()  年月日

 隣人の間で、もめごとがあったときに、日本では裁判に持ち込むことは少ない。それは、話し合いで解決しにくかったり、弁護士という存在が身近ではないからである。しかし、地域のコミュニティが崩れ、共通の社会ルールも少ない現代では、裁判などの公的な解決の場を利用するのがやむをえなくなりつつある。最近では、外国人の移住によって増えてきているさらなるもめごとに対して、私たちは対応していかなければならない。

 そのためには第一に、もめごとを恐れないことだ。多くの人はもめごとに直面するとできれば避けたいと考えるのではないか。確かに、その場では波風を立てずに済むかもしれない。しかし、恐れて逃げてしまえば、根本的な解決は先送りされ、むしろ誤解や不信感を大きくするだけである。だからこそ、私たちはもめごとに立ち向かう勇気を持たねばならないのだ。そもそも、もめごとが生まれるのは、人が互いに真剣に関わろうとしているからである。意見が衝突するのは、それぞれが大事にしているものがある証拠だ。すなわち、もめごとは単なる不幸や失敗ではなく、相手の考えを知る入口にもなり得る。恐れて避けるということは、相手の本心を知る機会を自ら放棄することに等しいと思う。僕自身も、このようなことを実感することが何回かあった。文化祭の準備で出し物を決めるとき、クラスが二つの案に分かれて激しい口論になった。僕は最初、雰囲気が悪くなるのが嫌だと思い、最初は議論から距離を置いた。しかし、そのままでは決着がつかず、思い切って意見を述べ、相手の話も聞いた。すると、それぞれの案の強みが見えてきて、最終的には両方の要素を組み合わせた形でまとまった。この経験を通して、もめごとは恐れるべき障害ではなく、より良い答えに近づくための通過点なのだと感じた。このようなことは、社会においても同じだと思う。異なる文化や価値観を持つ人々と共に暮らす以上、もめごとは避けられない。しかし、もめごとを恐れずに受け止め、冷静に向き合えば、そこから理解や信頼が芽生える。逆に、恐れて距離を置けば、互いの間に壁ができ、ますます溝は深まるのではないか。このような姿勢は、相手と向き合う勇気を生み、解決への道を開く原動力になる。人である以上、もめごとというのは完全になくならない。しかし、恐れずに立ち向かえば、それは人を分断するものではなく、むしろ人を結びつける契機となるのである。

 また、第二に、法律で対処できない社会的な差異を無くす努力をすることだまた、第二に、法律で対処できない社会的な差異を無くす努力をすることだ。法律は人々の行動を一定の枠組みの中に収める役割を果たすが、それだけでは十分ではない。なぜなら、もめごとには目に見える行為だけでなく、心の中にある偏見や無理解が大きく影響するからである。そうした要素は、法律で禁止したからといって直ちに消えるものではなく、社会全体で意識的に取り組んでいかなければならない。



 歴史を振り返っても、社会的な差異の克服には人々の努力が不可欠だったと思われる。例えば、アメリカ合衆国では1964年に公民権法が制定され、人種差別を禁止した。しかし、その後も人種をめぐるもめごとは続き、法の力だけでは差別意識を根絶できなかった。実際に、公民権運動におけるキング牧師の演説や、1965年のセルマからモンゴメリーへの行進といった市民の活動が、人々の意識を変える大きな契機となったのである。つまり、法律は一つの土台であり、それを実際に生かすかどうかは社会全体の努力にかかっていたのである。ここから言えるのは、社会的な差異を縮めるには、制度の整備に加えて、個人が自らの態度を問い直す必要があるということだ。法律が定める禁止事項に従うだけでは、消極的な従順にとどまってしまう。大切なのは、相手を理解しようとする積極的な姿勢である。例えば、言葉が通じにくい相手に対しても、根気強く耳を傾けたり、相手の文化に関心を持ったりすることが、もめごとを小さくする第一歩となる。そうした日常的な努力の積み重ねが、法律の及ばない領域を補うことになるのだ。このようなことから、社会的な差異をなくす努力とは、制度と個人の間に橋をかける営みであるといえる。制度の存在を前提としつつ、そこに生きる人々が互いを理解しようと努めることによって、もめごとを建設的に乗り越えられる社会が形づくられていくのだ。

 確かに、法に頼って白黒はっきりさせることも大切だ。しかし、「境界をなくすことは難しい。しかし、境界の上に橋を架けることはできる。」というように、そのようなもめごとを回避するためには、お互いのことをもっと理解したリ、悩まずにすぐに解決しようといった具合にそれぞれがもっと問題に向き合うべきなのではないか。