知識と情報
高3 あかしか(akasika)
2025年9月2日
知識は認識や思考が主観的な過程であることを強調しながら、その中に社会的過程が入り込んでくることを同時に強調するという二重性にあるといえる。そして知識は反復され、記憶され、蓄積されていくものである。一方で情報は事実に過ぎないため、伝達されるもである。また、意外性を生命とするため、情報は一回限りのもので知識のように反復され得ず蓄積され得ない。これから先の生まれたときからインターネットがある世代は情報には詳しいが、知識を生産する能力は失われていくかもしれない。私たちは知識を作り出す方法を身に着けるべきだ。
第一の方法として、情報を受け取るだけにしないで自分に落とし込むことだ。私は朝のホームルームでニュースを見る時間がある。見たことを要約し、最後にはそのニュースに対する自分の意見をかくというものだ。私はよくYahoo!やラインニュースを見るけれど、自分の意見を考えたことはなかったので意外性のあるものや自分の興味のあるものしか記憶に残っていなかった。しかし自分のあまり興味のない分野のニュースでも意見を考えることで、意外と自分の進路につなげることができたり意見の幅を広げることができた。このように情報を得たら自分の中で咀嚼するように少し考えてみると自分の思想や意見を織り交ぜたものになり、他人に話すときに受け売りではなくなる。
第二の方法は、教育現場でもっと生徒が考える場を作ることだ。学校の授業というのは数学では公式を教えたり歴史ではどの年代に何が起きたかといった事実を一方的に伝えるものが多い。最近調べ学習というものがある。調べ学習とは、生徒が与えられたテーマについて情報を整理をし、自身の意見や結論をレポートなどにまとめる学習法である。しかし私が体験した調べ学習は、「イギリスと清の戦い方の違いについて調べてみよう」といった最初から教科書やネットを用いて調べるというものだ。もし始めに自分の考えたものを書いておけば自分では気づかなかったものや調べてもあまり出てこないものに気付けたなどの自分の考えに対しての発見もあるだろう。私は調べ学習が本格的になってきたころに中学校を卒業したのであまり詳しいことはわからないが、
生徒が情報を活用して物事を考える場を総合的な時間だけでなく普段の授業にももっと取り入れていくべきだと考える。
確かに、知識を得るために情報は必要である。しかし、「知識とは学ぶものではなく自分で考えるものである」という名言のように情報からどのように解釈して知識を生み出したのかが大切なのである。情報を自分の知識としてしまうのは、公共物を自分のものと言っているようなものだ。今の時代は知りたいことがあればすぐ調べることができてしまう。調べる前に立ち止まって自分の意見を書き出したり思い浮かべたりするだけで検索結果の見方が変わってくるだろうし記憶にもより残りやすくなるだろう。私は来年大学生になり、文献を読んだりインターネットを使ったりして様々な情報を集める機会が今よりも多くなるだろう。そこで情報として受け取るだけでなく知識につながるようにしていきたい。