無駄じゃない
   小6 よしたか(yositaka)  2025年9月2日



私たちはいつの間にか、「それって役に立つの?」という考え方に慣れてしまっている気がする。学校の勉強も、仕事も、将来のためになるかどうか、収入につながるかどうか、そんな目で見られることが多い。でも最近、ふと立ち止まって考えることがある。本当に「役に立たないもの」には価値がないのだろうか、と。



ある日、夕方の帰り道で空を見上げたら、空が真っ赤に染まっていて、思わず立ち止まってしまった。スマホで写真を撮るでもなく、ただ見ているだけだったけれど、不思議と心が落ち着いた。その時間は、何の生産性もないし、誰のためにもなっていない。でも、自分にとってはとても大事な時間だった。



それって、セミの声を聞いたり、猫がのんびり昼寝してるのを眺めたりするのと、同じようなものかもしれない。何かの役に立つわけではないけど、確かに心が豊かになる瞬間だった。



昔、「無用の用」という言葉を聞いたことがある。役に立たないように見えるものが、実は大切な働きをしている、という意味らしい。子どものころは意味がよくわからなかったけれど、今になるとなんとなくわかる気がする。たとえば、詩や絵や音楽なんて、生活に絶対必要ってわけじゃない。でも、そういうものがあるからこそ、人の心は動くし、励まされたり、前を向けたりする。



日々の会話だってそうだ。学校や職場で交わす「おはよう」や「最近どう?」といった他愛のない言葉。情報としては何も得られないけど、そのやりとりがあるだけで、人との距離がぐっと近くなる。逆に、用件しか話さない人とは、なかなか仲良くなれない気がする。



そして、自分の中にある「役に立たない」と思っていた経験や時間も、実は大事なものだったのかもしれない。昔、夢中になって描いていた落書き、意味もなく書いていた日記、どこにもつながらなかった恋愛。どれも今の生活には直接関係ないけれど、それがあったからこそ、今の自分がいる。あの頃の感情や時間は、今でも自分の中でちゃんと生きている。



社会はどんどん効率や成果を求めるようになっているけれど、人間って本来、そんなに単純な生き物じゃないと思う。少しくらい無駄があってもいいし、寄り道したっていい。そういう時間があるからこそ、心に余裕が生まれる。逆に、「ムダは敵」みたいに生きていたら、何のために生きているのか、わからなくなってしまいそうだ。



「役に立たない」と切り捨てられそうなものこそ、大事にしていきたい。だって、それがあるから人は人らしく生きられるのだから。



役に立たないものとは、人間にとって、心を育てる肥やしである。