家族として犬を愛する
    ()  年月日

  イギリス人は、犬を躾けることが上手で、不必要にほえたり騒いだりすることはないのだ。日本の犬は、躾が悪くとびかかったり、ほえたりと飼い主が苦労してしまう。こんな違いがあるのは、日本人は、家畜を人間の支配下に位置するもの、人間に従属する存在だとみなしていなく、一方でイギリス人は家畜とは人間が完全に支配をして自身は自立性を持たず、徹底的な人間中心的動物観を持っているからなのだ。人々を無意識に動かしている基本的な価値体験の枠組みというものは、実に深く隠れている。



 母の知り合いの家で飼われている可愛いトイプードル「クルミ」である。クルミは自分を犬ではなく人間だと思っているらしく、どんなに庭に出しても脱走することはない。普通の犬ならば好奇心のままに走り出してしまいそうだが、クルミは「自分は人間だから」とでも言いたげに落ち着いている。行動や仕草もユニークで、まるで犬の形に変装した人間のように見えることさえある。たとえば、椅子にちょこんと腰掛けて前足を机の上に置き、話す人の方をじっと見つめる姿は、本当に人間の子どものようで、思わず笑ってしまったほどだ。犬という存在にここまで人間らしさを重ねてしまうのは、日本的な「家族として犬を愛する」感覚に近いのかもしれない。



 さらにもう一人、母の友達であるカナダ人の話も印象的だ。その人はとにかく犬が大好きで、道で犬に出会うと必ず声をかけ、まるで長年の友達のように接する。犬もまた心を開くのか、しっぽを振って応える姿をよく見かける。人間と犬の間に言葉を超えた信頼や友情が築かれているように思え、文化の違いを超えて犬という存在が人に与える温かさを実感した。



この話を読んで、イギリスと日本でしつけの仕方が違うのは、動物観や生物観の違いがあるからだということがわかった。僕は、どちらの考えも一方的に良い悪いを決めるものではなく、状況や環境によって変わると思う。もし僕が犬を飼うなら、きちんとしつけをして公共の場で迷惑をかけないようにしつつ、同時に家族の一員として大切にしたい。そのようにすれば、人間も犬も心地よく暮らせるのではないかと感じた。