何事ぞ 花見る人の 長刀(感)
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  何事ぞ 花見る人の 長刀 花見に平素の身分、階層を持ち込むのは野暮だ。花見に行ってまで武士の権威を振り回すような輩は偉そうにするなと反感を買う。花見は町内や職域といったきょう規模の団体が連れだってよく出かける。それは新しく共同体意識を盛り上げようとするか、あるいは壊れかかったそれを立て直すのに利用される。花、雪、月この三つが日本人の自然鑑賞の基本だ。いずれもうつろいやすいものである。日本の夜行の基本は見ることにある。西洋人は告白をするとき私はあなたを愛していますというが、日本人は決して言わない。ただ、月を見ながらいいお月さんですねそして二人でじっと空を見上げるだけでよいのである。言葉に頼りすぎない日本的なコミュニケーションは良い。



 第一の理由は遠回しに言う事で傷つけにくくなるからだ。ある子が「僕は一万円お小遣いをもらっているんだ」と言った時に直接的に一万円もらっているなどのお金の話はしない方がいいというと相手は傷つくかもしれないし、それをいった人が反感を持たれるかもしれない。だから直接的にダメというのではなく「そういうのはちょっと、」と間接的に、そういうお金などに関することのはなしはひとにすぐに喋らない方がいいと伝えることで反感を持たれたり傷つけたりするリスクが減ると思う。そうすることで争いなどが起きずに変なことを言わないようにさせることができるようになるのかもしれない。



 第二の理由は普段からすべてを言葉にせずに伝えることで、空気を読むことになれることができるからだ。この前、生徒会の役員と代表の選挙演説があった。これは生徒会の役員と代表に立候補する人たちが舞台に上がって公約などを話す演説だ。僕は立候補しなかったので客席にいた。その時に、今はしゃべったりしてはいけないという空気が伝わってきた。きっとすぐに伝わったのは普段から空気を読んだり言葉以外のもので相手に意思を伝えたりしていて、慣れた結果だと思う。だから、先生が前で言わなくてもそういう雰囲気が伝わったのだ。もしも、普段からすべて言葉で伝えていたならば、このようなことは実現しないだろう。なれていないことややったことのないことをやれと言われる時と同じようなことだと思う。



 確かにはっきりと言った方が確実に伝わるが、やはり、「トランプが生きているのは、それが実際のプレーに使われているときである」という言葉もあるように日本人の言葉に頼らない共通理解をもとにして意思を伝える文化のようなことは大切である。そういうようなことになれておくことで、いざと言う時に言われなくても、今は何をすべき時なのかや何をしてはいけないのかなどの必要な情報がすぐにわかる。もしも、こういうことになれていないと場違いな行動や言葉を発してしまったりというようなことになりかねない。だが、普段から雰囲気などを感じ取るなどのことはしているから慣れているためその心配はいらないと思う。これからは言葉だけではなくもっと雰囲気を感じ取るようにしたいと思う。