自己実現を追い求めると
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近年、日本社会では自己実現を果たせずに苦しむ人々の姿がますます目立つようになってきた。本来であれば、現代社会は自由と多様性を尊重する場であり、誰もが自分の可能性を広げることができるはずである。しかし、やりたいことが見つからないことや努力しても報われない、という思いを実際に抱く人が増え、精神的に追い詰められるケースが後を絶たない。誰もが自由であるがゆえに、満足のいく地位や財産を得られないと、それは自分の努力不足か社会の不公平さのせいだと考えざるを得ない。こうして人々は限度のない自己実現を追い求め続け、心身を消耗させてしまっているのが現状であることが問題である。
この問題の原因は、無限の自由と可能性という近代社会が掲げてきた理念そのものに潜んでいる。たとえば医療の世界を見てみると、最新の技術を用いれば病気はすべて治せるという幻想が、医師や患者の双方に重圧を与えている。実際、1991年には川崎協同病院で、延命治療を中止した医師が殺人罪に問われるという事件が起きた。そこでは、患者を生かせる限り生かすべきだという理想と、本人や家族の意思を尊重すべきだという考えが鋭く衝突していた。この事件は、医療が完全な成果を求める自己実現の舞台となり、かえって人の尊厳を脅かすことがあることを示している。社会全体を見渡しても同じである。職場では成果主義が浸透し、常に他者と比較されることで、人は休む間もなく競争に駆り立てられる。教育現場においても、子どもたちは自分らしく生きよと言われながら、同時に周囲より優れなければならないという矛盾した圧力を受けている。こうした構造が、人々を限界まで追い詰めているのである。
では、どうすればこの問題を克服できるのか。まず医療の場では、治すことだけを唯一の目標とせず、患者がその人らしく生きることを支える姿勢を重視する必要がある。たとえば緩和ケアは、病気を完全に治癒させることよりも、苦痛を和らげて日常生活を取り戻すことに力点を置いている。リハビリもまた、機能回復だけでなく、本人が納得のいく生活を続けるための手段である。これらは自己実現から自己表現への転換を体現していることだと言える。次に、社会全体としても同じ方向性が求められる。絵を描くこと、音楽を作ること、文章を書くことなどは、他人と比較して成果を示す作業ではなく、その営み自体が充実感をもたらす活動である。社会がこうした自己表現の場を広く認め、評価よりも存在そのものを尊重する風土をつくれば、人々は無理に自己実現を追い求める必要から解放されると考える。
確かに、自己実現の追求は近代社会を発展させ、科学技術や経済の飛躍的成長を生み出してきた大きな原動力であった。しかし、その力が行きすぎれば人を疲弊させ、時には宗教的熱狂が暴力へと変わる危険すら生み出してしまう。社会とは、人を競争に駆り立てる仕組みではなく、人が自分を表現しあえる共同体であるというように、これからの社会は、限度のない自己実現を迫るのではなく、自己表現を尊重し、暴力に頼らない共生の道を探るべきであると考える。また、オウム事件の背景には、まさに限界を超えて自己実現を求め続けた人々の姿が見え隠れしている。さらに、社会とは人を追い立てる舞台ではなく、人が自分を表現し安心して生きられる居場所であることを忘れず過ごしていくべきだ。人々は限度のない自己実現を追い求め続け、心身を消耗させてしまっているのが現状であることが問題である。