最後までやり遂げる
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年月日
自分で判断し決断し行動することは簡単なように見えてとても難しい。従って主体的に判断して行動したいという欲求を除けば他人や集団に依存して行動してしまいがちになる。子供達を取り巻く教育状況この現象と同じである。子供達は常に「指示まち」であり、制限のない抽象的な自由を極度に恐れた状態だ。つまり彼らは自分で考え、判断し、決断するといった作業に慣れていないと言って良い。
確かに自分で判断し、主体的に行動することは大切だ。これによって充実感や達成感を得ることができるからだ。私は今年の夏休みに統計グラフコンクールに応募した。テーマ設定に制限はなく、自分が調査することに関連したグラフを一枚のポスターとしてまとめるものである。小学生のときも「調べ学習」の一環として情報を選別し見やすい形に整理する機会は多かった。しかし今回のコンクールとの大きな相違点はテーマ設定の自由度である。当たり前のように字数や調査内容を制限され、その枠内で作品制作をしていた私にとって「自由」であることに不安を覚えた。今振り返れば小学生の頃は自由ではなかった、言い換えれば確実な指示がある中で物事を達成する安心感があったと言えるだろう。しかしコンクールにこれらは通用しない。私は漠然とした中で調べたい一つのトピックを見つけ出すことに長い期間とても苦労した。だからこそ、テーマを考え、調べ、まとめ、一つのポスターに自分だけの作品が仕上がっていく一瞬一瞬は今までに経験したことのない新鮮かつ充実した時間だった。確かに制限がないことには荒波の中を手探りで進んでいくような苦しさがあるのかもしれない。しかし自分から能動的に挑戦していくことで自分が求めていたものに向かって行動すること、その過程を人生の中の充実した時間の一つにすることができるのだ。
一方、他人の意見を取り入れることも大切だ。自分と他人では発想や経験が同じことはなく自分が他人に入れ変わることももちろんできない。だからこそ、一つの問題に対して多様な考え方が生まれ視野を広げたり、新しいことを更に吸収し結果へと繋げたりすることができる。私が英検の目標級に合格することができたことも同じである。挑戦しては失敗に終わることを繰り返していたが、今考えるとその原因には自分の甘さがあったと言える。私の試験を間近に見ていた母からは単語の勉強方法やエッセイの書き方について何度も注意され続けていた。とはいえ、受験を実際にしてきた私にしか分からないものがあると考え、母の助言を聞き入れることは少なかった。その根底には「『完璧』ではなくても合格する。」という意識があったのだろう。しかし周りの友人が合格していくことに危機感を覚え、自分の考えを改め母の話を詳しく聞くことを心掛けていった。これにより驚くほどスコアが向上し、母の話をすぐに聞かなかったことに酷く後悔した。確かに他人の意見を取り入れ過ぎるあまりそれに振り回されることには価値がない。しかし客観的に考え、自分にはなかった意見を受け入れることで新しい学びを得、成功へと繋げることができるのだ。
確かに自分の判断で物事を進めていくことも、他人の意見を取り入れながらやっていくこともどちらも大切だ。しかし最も大切なことは最後までやり遂げることである。 「成功している人は、みな途中であまり道を変えていない。いろいろな困難があっても志を失わず、最後までやり遂げた人が、概して成功している。」という言葉がある。せっかくの自分一人、もしくは他人とともに考え出した新しいアイディアを途中で取り辞めてしまうことはもったいない。苦しい中で目標を達成していくことで初めてその意義や充実感を知ることができるのだ。私も諦めずに挑戦を続けることで自分が打ち込める「何か」を見つけていきたい。