現代の自己表現
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年月日
オウム教団は、初期工業時代の遺物にほかならず、ポスト社会の感性に欠けているのだ。近代とは、個人にとっては業績達成の時代であり、財と地位による自己実現の時代であった。企業組織の確立によって、他人との具体的な比較によって、己の分を知り、勝敗を納得することができたのである。だが、昨今は個人が海のような大衆社会にじかに触れ始めた。誰もが自由になる半面、限度のない自己実現を迫られる程度が増加したのである。抜本的な解決法は、身近で小さな世界の中で自己表現を行うことである。私は、将来、小さなコミュニティの中で自己表現をする人が増えると、再び他者との比較によって自己実現を迫られる社会に戻ってしまうと考える。例えば、歌手や画家などの食べていくのが難しいとされる職業が格好の例である。エンタメに関する仕事で表に立つ人々は、趣味や特技の延長線でお金を稼いでいる。プロの歌手やその道で食べていくたような家を目指していない場合でも、趣味の先にはそれが仕事になる可能性がある、と思うと、自己表現に留まらない自己実現が自然と迫ってきてしまう場合もあるのではないだろうか。
対策の一つ目としては、小さなコミュニティ全体で、共通の目的や目標を掲げることである。私が通っていた合唱団の場合は、歌っている最中に特定の人の声が目立ってしまうことが嫌厭される傾向にあった。だが、事実として声が目立っていたとしても、客席に届いた時にお客さんが満足するような演奏であれば問題ないのである。そして、必ずしも全員が周りと声を合わせようとして、引っ込み思案になっている演奏が良いとも言えない。そのため、合唱のように客席側が満足できる演奏、というような、共通の目標を持つことが必要だといえる。
対策の二つ目としては、仕事や勉強と自己表現との両立を図ることだ。人には誰しも、やらなくてはいけないことがある。しかし、それらにかけた時間や労力は必ずしも報われるものではない。また、努力が報われることよりも、現代社会において必要なのは自己表現である。自己表現は、自分で自分を認めることと同義である。そのため、仕事や勉強など、やらなくてはならないことのほかに、自分自身を認め、表現することで発散する時間が大切だと思う。
確かに、限度のない自己実現は自分を成長させてくれるだろう。しかし、勉強においても、暗記だけをするのではなく、問題形式に合わせて解く練習も必要なのである。つまり、インプットとアウトプットの両方が必要である。自己実現を迫られる現代社会において自己表現をすることで、充足感や自信を感じることができる。今後、自己実現だけではなく、自己表現の力がより一層求められる社会になるだろう。そのため、私たちには小さなコミュニティでの目標設定や、仕事や勉強と自己表現との両立が必要なのである。