分断
()
年月日
この夏、スイスで開催されるヴェルビエ音楽祭に参加した。世界の名だたる音楽家と同じステージで公演する体験自体はさることながら、それ以上に印象に残ったものがある。世界中からやってきた参加者たちとの交流自体だ。見知らぬ他人の状態から、三週間の共同生活を通して培った一体感。それは音楽的達成感のみならず、多様な人と繋がり合う喜びでもあった。
そうして最終公演の翌日にいつもの日常へ戻り、現実へと一気に引き戻された。溢れるニュースは、各国の分断が激化しつつある社会を映していた。これを目の当たりにし、私はその落差に少なからずショックを受けた。非日常を脱して初めて、これらの情報が現実味を帯びたのである。すると次第に、この現状を捉え直そうという思いが膨らんでいった。ヴェルビエでの記憶を反芻しながら、その体験の中にヒントがあるのではないかと思えたのだ。
最初に思い出されたのは、様々な場面で面白いほど反映された国民性だ。食事に米が出るとアジア系は一斉にその批評をしだし、イタリア人は夜食にパスタを振る舞う。仏頂面のドイツ人の傍でフランス人たちは議論に花を咲かせる。まるでエスニック・ジョーク(人種ネタ)から直接飛び出してきたかのような光景である。
振り返ってみれば、これらはジョーク以上の役割があった。各人の文化背景を裏付け、互いのアイデンティティへ敬意を促す効用である。たとえば、イタリア人が毎晩美味しいパスタを作るのも、自身の食文化にプライドを持っているからであった。私たちもそれをわかっていて、「本場のパスタ」をありがたがって食した —— ただ食いしん坊なだけではないはず —— のである。
このように、各人が盲目的な愛国論は抜きにして、少なからず自身の帰属を自覚していた。ゆえに、他者の文化背景も尊重できたのだと感じる。そして、これらが強固に確立されたからこそ、厚みある人間同士としての繋がりが可能になったのではないか。
だが、このような交流を実現するには、まず個人同士が出会う場が必要である。そのためには、広範囲に定着した「共通意識」の存在が有用だ。私たちの場合、それが音楽であった。たとえどれほどの属性を異にしていても、少なくとも音楽一点については共鳴し合えたのである。
たとえば元々クラシック音楽は欧州音楽だが、それが世界規模で広まった結果、地域を超えた芸術分野になった。だからこそ、国境や言語による壁を凌駕し人々を統合する力を持ちうる。その他の芸術や娯楽 —— 文学、スポーツ、アニメ、ポップス —— も同様だ。これらもまた、特定の地域圏の枠を超えて承認される「世界文化」と言えよう。
この前景には、個人間のミクロな交流があるべきだ。出身や立場以上に大きな共通項があるからこそ、その差異を超えて結び合える。インターネットを通して世界中が繋がれる今、このような「世界文化」は人々の交流に広く寄与できるのではないか。
近年激しさを増す極端な対立構造。このような分断状態の是正において、個人単位の結びつきが効果的であり、先手にあるべきと考える。
私にとって、その鍵となりうるのが二つの「文化」である。一つは個人的な「局地文化」だ。自身に積み重なってきた遺産を認識し、それが己と他者にどう影響しうるかを知るのである。もう一方は大域的な「世界文化」だ。芸術・娯楽を共通語とし、個々人の出会いの場を提供する。つまりこれら二つの「文化」を通し、背景の異なる人間同士が互いの差異を尊重しながら、共通項を分かち合うのである。
もちろん、「文化」が現代社会の諸問題に対する劇薬ではないのは明白である。どう頑張ろうと、音楽で腹は満たされない。しかし、この複雑な命題に対して、脱出口を示す微かな光であるようにも感じる。分断された家は立つことができない。だからこそ、その基礎として文化的絆という強固な土台を作り上げなければならない、と私は主張したい。