体育祭は一人が頑張ってもね
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 文化ということを、ここでは日常の生活に表れている面から考えていって、ヨーロッパと日本のそれを比べてみると、最初に思い浮かぶのは、次のことであり、それは敗戦後十年間のデモクラシーの談義だけで、樹立されうるような優しいものではなく、これをどういう方向へもっていくようにしたらいいかということになれば、方法や手順においては、種々の考え方があろうが、到達点としては、全てが強い対等の人格となることが目標だと、私は今もなお考えるのである。統制的な押売的な手段は、いかなるものでも、事柄を根本的に壊し、全ては、日本人自身の内部からの力が湧いて、なさればならぬのである。



確かに、一人一人が自立することは良いことだ。日本人であればだれでも知っている「桃太郎」の話では村の人が鬼に苦しめられていることを知って、誰にも命令されていないのに町を守ろうと自ら鬼退治に行くことを決心し、桃太郎が自分の意思で立ち上がったのだ。これは、自立した行動が小さな町の社会を救った例といえる。

私は、自分で決意し、危険を恐れずに進んだ桃太郎は尊敬できるなと思う。その姿を見て、私も人の意見にすべて承諾してしまうのではなく、自分の意見がいえた方が良いというような自立の大切さを教えてくれる。私も意見を述べるときや、困難なことがあったことがあったら、自分の勇気で乗り越えたい。



しかし、相互関係が成り立っているからこそできる助け合いもあると思う。私は六月に体育祭があった。体育祭では、委員会がある人や部活に入っている人は各部活で仕事が分担されて本番を迎える。だが、役割は必ずしも全員にあるわけではない。帰宅部や、文化部は役割がないのだ。私は帰宅部なので何もなかった。だが、することがないからといって学年種目に出なかったらだらだらすることなく、男女の選抜リレーに出ているクラスの人を全力で声が枯れるまで応援するというように、まるで応援団のようにクラスが一体となって応援できていた。



確かに、自立することも、相互の助け合いもどちらも大切だ。しかし、最も大切なことは「やさしさが力になるとき、ほんとうの助け合いが生まれる。」という言葉があるように、自立して自分の意思を貫き通すこともよいと思うが、ときには相互の関係を大切にし、お互いに自分の持っている力で助け合うことができると良いのではないだろうか。