日本的な良さ
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 最近は、花木や草花の名称が外来語に置き換わっている。もともと気候風土の関係で、日本は植物の種類が多く、また中国の影響で本草学が発達していたこともあり、味のある名前が多い。一方ヨーロッパは草木が少なく、名づけに学問的なギリシャ語やラテン語を使用していた。その難しい英語名を日本人が外来語として取り入れたため、紛らわしく言いにくい名前が花屋の店頭などに多く出てきてしまった。このような現象に、新しさを求め続ける日本人の積極性を認める人もいるかもしれないが、美しく巧みに工夫された和名を置き換えて、いったい何の意味があるのだろうか。僕は日本的な良さは残していく生き方をしたい。

 第一の方法は、外来語に頼り過ぎないことだ。最近は、彼岸花が「リコリス」という言葉に置き換わったことや、自由な学び方を重視した教育のことを「オルタナティブ教育」、議論や討論のことを「ディベート」ということなど、様々な言葉や意味が外来語になっきている。当然、日本語を第一言語として使っている私達からすれば、初見でその意味が分かりにくく、また覚えにくくも感じる。後なんか嫌である。例えば地動説などは初見でもある程度の意味は推測できるのではないだろうか。また、日本語にはそれが持つ独自の良さや美しさがあると感じる。実際僕は、「忘れじの言の葉」というタイトルの歌を見つけたことがある。とても日本語の美しさが全面に出たタイトルで好きな歌だ。しかし、この歌の英語版のタイトルは、「Forgotten Words」と知った時は、まぁ意味的にはあってるのかもしれないが、なんか違う..と思ったことがある。確かに英語の言葉にもその良さもあるのだろうが、日本人の我々からすると、日本語の言葉が持つ美しさのほうが直に感じる気がする。

 第二の方法は、自国の文化を守ることに力を入れることだ。近年はグローバルな時代になってきたが、それにより自国の文化や考え方が失われていくのは悲しく勿体ないと感じる。学校の図書室で見つけた「人は死なない、ではどうするか?」という本によると、

明治維新があった時代から前の日本人は丹田という、腹の下あたりにあるさまざま動作をするときに重要になってくる部位が、とても発達していた。しかし、今では顔や髪、上半身の筋肉など 身体の上側にフォーカスしすぎているということが書かれていた。どちらが良いとか悪いとかではないが、このように昔の文化や考え方が失われ過ぎていくのは問題なのではないだろうか。

 確かに自国にはないものを吸収して変化していくことも大切だ。しかし、それにより自国の良さが消されて行ってしまうことの方が問題だ。インターネットが普及してきたことにより、自国や自分は様々なものを吸収して変化しているが、それにより元からあった良さが失われてきているように感じる。「自分の心のうちに持っていないものは何一つ自分の財産ではない。」という名言にもあるように、結局自分の心のうちにないものは自分の財産にはならない。それは文化や国の集合的な意識にも同じことが言えるはずだ。であれば、吸収する事と同じぐらい、今ある良さを見つめなおすことも大切なことなのではないだろうか。だから僕は日本的な良さは残していく生き方をしたい