「世界中どこに行っても」感想文
   中1 あさくに(asakuni)  2025年9月3日

 ☆要約文(200文字)

 全体的な「世界中、どこに行っても」の主な内容は、どこの国の人でも自分の慣れている物を身の回りに置いておきたいという事だ。人は新しいものにすぐ切り替えるのが苦手で、急激な変化には弱いものである。そんな新しい環境になれるのも挑戦するのも苦手な人間ですが、特に日本人がそのような応用力が不足していると思われる。なので、観光などに行っても、自分と親しんだ物を身の回りに置いておきたいのだ。なので多くの日本人客は日本の航空会社に乗って、和食などを現地で食べたりすることもあるのではないのだろうか。







☆感想文

 「世界中、どこに行っても」は僕に真新しい考え方や視点を与えてくれた。僕が一つの部屋だったらこの作文のお陰で新しい窓が追加されたと言っても過言ではない事だろう。まず、冒頭から、「世界中どこの誰でも自分の小さな母国が付きまとっている」と主張した部分で、僕はこの文にのめり込まれたのであろう。先ほどいった「小さな母国」というのは、観光などで異国に行った時、いつでも言語、食べ物や自分の生まれた母国の常識が自分にくっついているという意味である。そしてどんな国籍の人も少し自分の文化のかけらが身の回りにあると安心するという事実に納得した。また、人間は自分の通常や常識から一歩出て新しい生活のイノベーションを起こすのをあまり好まないことにも驚いた。この「世界中、どこに行っても」を読んで、個人的には「人間社会に似てるな」と思った。なぜこのような考えが頭をよぎったのかというと、「文化的カプセル」に身をひそめる同様、自分の知っている限りの能力以上の事をするのを多くの人は躊躇するという事。というのも人間社会特有の「人の目」が存在するからだ。恥ずかしがりやや、陰気な人はこのような、他者の意見の事を考えすぎではないのだろうか。これは世界中多くの人に共通する事だと思うが、日本人がこのような反応が一番強いと思う。それも、日本の社会は、第三者が一番権力を持っていて、最近ではネットで好きな事ばかり言っている現状がある。これもあって、他の意見を考えすぎていて、恐怖に立ち向かえずに個性の「羽」を伸ばそうに伸ばせない日本の方々も数少なくないと思います。

 「世界中どこに行っても」を読んで、人は挑戦や急激な身の回りの変化に弱いと学んだ。けれど、僕は人が一番の追い詰められた時ほど、その「殻」を破らないといけないと思う。僕はアメリカ合衆国に来てもうすぐ8年経つが、幼稚園でここに来た当時はひたすら苦労の連続であった。学校に行っても言語がわからない、授業もまともに理解が出来ない、そして先生に授業で当てられたらパニック状態。これらに耐えに耐えたと思ったらいつしかほとんど外部との接触を遮断し、一人ぼっちで学校生活を送っていたのだ。そしてコロナ禍を挟んで2~3年の月日が経っていた。コロナ禍の間、大分英語の学習もしたので、理解も進んでいたのだが、いざ学校が始まっても話し出す勇気が湧き出してこないのだ。けれどもこのままではだめだと思い、殻を破って同学年と初めて日常会話をしてみた。最初は向こうも戸惑ったものの、段々と親しくなり、今では親友となった。

 「世界中、どこに行っても」を読んで僕はもう一つの世界の見方を与えてくれた。そして、この作文で記述されているような現象は社会などでも起きているが、僕は生活のイノベーションが必要だと思い、自分の殻から出てみた。このように、慣れていて離れがたいものでも、自分が変わらないといけないと思った時には変化を起こしたら良いのではないのだろうか。