私は20年ほど前から
中1 あえなて(aenate)
2025年9月1日
人間は自らを飼育し、家畜化――自己家畜化していると述べ続けている。飼育とは、食物を供給され、さらに生活空間や場も与えられると言って良い。人は社会システムに参加することによって、社会的に食物を供給されている。社会的に飼育されているとも言える。社会システムにせよ、食料生産の仕組みもまた、人間が作っているので、自己飼育・自己馴化である。時には、社会のシステムから外れて、自由に生活するのも、良いことだ。
その理由は第一に、社会のルールに合わせて生きているだけでは、本当の喜びは得られないからだ。社会のルールに従ってないいわゆる変人という人がいるが、そういう人の方が、ルールに従っているひとよりも満足度が高いだろう。父は今は保育士をやっているが、まさかの理由で保育士になったのだ。父は昔、会社員で、満員電車に乗って、スーツを着て、ネクタイをして会社に行っていた。しかし父は、満員電車やスーツやネクタイで会社に行っていることが、とても縛られていると感じた。そして、私服で仕事ができて何も縛られていない保育士になったそうだ。夢を考えている時は、全く保育士なんて考えてなかったからしい。失敗も成功に活かせたことが良いと思った。僕も縛られていることがあったら、縛られないことに変えていきたい。
また第二の理由としては、自由に生きられることで自分も成長するからだ。たまに新聞で、ガイド付きの完全にスケジュールが決められている旅行などがあるが、そういうのはどこ行くかも決めれないし、何食べたいかもキメれないから、あまり記憶に残らないのだ。母から三浦知良選手のことを聞いた。当時、サッカーのプロがなかった。だけど三浦選手は、サッカーがやりたくて、当時サッカーが盛んだったブラジルに留学したのだ。普通の人なら、サッカーが日本で盛んじゃないなら、諦めて違う競技に踏み込むと思う。おそらく僕もそうなると思う。しかし、三浦選手は、みんなが制限されている道を突破して道なき道を進んでったのだ。僕は、これを聞いて思ったことは、三浦選手がどんだけサッカーへの愛が強かったのかがわかる。五十歳になっても、サッカーがやりたいという思いも持っているひとだ。このくらいの気持ちで僕も野球に向き合っていきたい。
確かに、ルールに沿った行動は必要だ。しかし、
「自分が考えるとおりに生きなければならない。そうでないと、ついには自分が生きたとおりに考えるようになってしまう」という名言もあるように、ルールに反った行動だけでは楽しくない。