日本のコミュニケーション

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  うつろいやすいものを惜しむ心が、事項に合わした会合の珍しさを尊ぶのだ。だいたい日本人は「見る」ということに重要な意味を与える。日本では、言葉でなく、物利的対象物を共に見ることで、社交が成り立つのだ。日本人なら、黙って何かを眺めることでも、会話は進行しうるのだ。私は、言葉に頼らない、日本的なコミュニケーションの取り方はよいと思う。理由は2つある。

 第一の理由は、年や性別にかかわらず同じものを見て、同じことを理解しあえるからだ。私には、似たような実例がある。小学6年生の時だ。祭りの時だ。祭りに来ていた人全員楽しそうだった。だから、私もテンションが上がった。友達と一緒に来ていた。カステラが無性に食べたくなった。だから、私は、「カステラ買いにいこ。」といった。すると、友達は、「同じことを思いよった。」といった。だから、カステラの屋台に並んだ。前に10人ぐらい並んでいる。私は、早くしてくれないかなと思った。暇だから、周りを見ていた。花火がもうすぐ始まるという合図の旗がたっていた。だから、とても楽しみにしていた。一番前に並んでいた人がカステラを買って、私たちの近くに来た。全然知らない人だ。おばあちゃんだった。すると、「カステラ10個買うたで花火楽しみやね。」といった。私は、同じことを考えているなと思った。私はびっくりした。その間は10秒ぐらいだっただろう。次にこんなことが浮かんだ。どうやって話を繋げたらいいんだ。私は5秒くらい悩んだ。それでもわからなかった。だから、「そ、そうですね。」といった。困ったときはこれが一番だ。すると、おばあちゃんはどこかに消えていった。申し訳ないなと思ったが、4秒くらいそう思ったが。それからは、知らない人でも同じことを考えているんだと分かって感動していた。

 第二の理由は、コミュニケーションをとることで、優しい気持ちが生まれるからだ。小学校3年生の頃だ。その頃は、同じクラスでもコミュニケーションをとることが苦手だった。だから、幼稚園が一緒の人以外にほとんど話したことがなかった。いわゆる、コミュ障だ。しかし、勇気を出して話しかけてみた。意外と話が合った。例えば、好きなゲームやアニメなどだ。私は、その人には優しくしたいという気持ちが生まれた。その理由はわからない。だが、たぶんコミュニケーションをとって話があったからだと思う。学校に桜が咲いた。とてもきれいだった。友達と一緒に見た。何も話さず見た。それからいろんなことを共にした。例えば、ゲームやお泊り会などだ。今では、親友だ。なぜそうなったかというと、コミュニケーションをとって優しくしたいという気持ちが生まれたからだと思う。一緒に桜を見なかったら日本のコミュニケーションをしなかったら。親友にはなれなかっただろう。

 確かに、言葉ではっきり自分の意見を言うほうが誤解が生じにくい。しかし、「トランプが生きているのは、それが実際のプレーで使われている時である。」という名言もあるように、言葉に頼らない共通理解を基にした日本的なコミュニケーションの取り方はよいと思う。だから、言葉に頼らない、日本的なコミュニケーションの取り方はよいと思う。