オリンピックの中立性
高2 かずま(auyoto)
2025年9月4日
近代体育はまず何よりも軍事教練としてはじまった。それはまず国民の体力の向上を目指すものだったのである。身体の近代化を推し進めたのは実は軍国主義だったということだが、しかしその背後にはさらに重要な動機が隠されていた。二十世紀の過半数を占めるのは米ソの冷戦だが、社会体制の違うこの両陣営が争っていたのは軍事力では必ずしもなかった。オリンピックは長い間冷戦を反映したが、その最大の話題が記録の更新とメダルの数に他ならなかったことを考えて欲しい。未体の祝祭を測る物差しが、国家の生産力を測る物差しと寸分も違っていなかったのである。オリンピックは、特定の国家に肩入れせず、大会のひいてはスポーツの中立性を守っている。しかし、実のところは国際的な情勢に左右され、また左右している面も否定できるものでないだろう。なぜ、オリンピックは国際的諸問題から切っても切り離せない関係になってしまっているのだろうか。
第一に、オリンピックとは魅力的なものだからだ。現代社会を生きるうえで、経済という言葉はどうあがいても切り離すことは出来ない。政治家はもちろん、一般的なサラリーマンや主婦、ホームレスだって無縁というわけにはいかないだろう。そして、経済で重要なのはお金であり、お金は無から生まれることはない。なら、どうすればお金を得ることが出来るのだろうか。外部から持ち込まれる。もちろん、それ以外の方法もあるだろうが。そして、外部から持ち込まれるケースは大きく二つ思い当たると思う。まず、輸出することで外国から料金をもらい受ける。もう一つは外国人観光客だ。オリンピックでは、世界各国の人々が集まる大規模な大会だ。そして、訪れる外国人の数も当然ながら上がる。経済的な効果も当然見込めるだろう。また、オリンピックの開催地が自国になるメリットはまだある。現地の情報、状況、状態などを伝えるのに、オリンピックは最適だ。先にも述べた通り、オリンピックには様々な人種、国籍の大人数が押しかけてくることになる。それだけでなく、各国のマスメディアも訪れ、選手らの活躍を自国で放送することになる。これは自国というものを民間にアピールするうえで非常に重要だろう。選手の住む環境、食事、地域の状態など、マスメディアはスポーツとは直接かかわらないところも映してくれる。オリンピックとは、このような魅力と呼べるものがあるのだ。各国がオリンピックの開催地というレッテルを、血ナマコになって追い求める理由もわかるというものだろう。
第二に力を誇示する絶好の機会が、オリンピックだからである。これは先に挙げた民間に対するアピールではなく、より政治的な面での話だ。かつて、戦後ようやく戦前の暮らしを取り戻してきたあの頃の日本で、オリンピックが開催されることとなった。このアジア人かにおいて初のオリンピックは、成功したといわざる負えないだろう。この大会で、日本は世界にその復興したさまを見せつけることとなったのだ。あの焼け野原から、ビルが建ち、鉄道が走って、車も今ほどにはないにしろ一般の世帯に、着実に普及している風景を、全世界に発信したのだ。もはや日本は、かつて二度目の世界大戦によって深手を負った、あの時の弱いままではない。列強の一国家として、国際社会に舞い戻ってきたことを、世界に示したのだ、力を示す例として申し分ないだろう。オリンピックとは、4年に1度しかない非常に大きな意味を持った大会である。それが開催される地は、世界中にさらされることとなるのだ。逆に言えば、それは自国の力を他国に示す場ともなる。経済力、軍事力、技術力、文化、インフラ、国民…上げようと思えばきりがないだろう。世界に己の力を示す。それがどんなことかは、いうまでもあるまい
たしかに、オリンピックは中立と言えなくはない。IOCは特定の国家に属しているわけではないし、また優遇しているわけでもない。しかし、こればかりは完全な中立と言えるわけがないだろう。実際、1980年モスクワオリンピックがいい例であろう。アメリカをはじめとした西側諸国の多くが、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由として、オリンピックを集団ボイコットした。たしかに、名目上はまともと言えなくもないが、政治とは無関係とされる、オリンピックをボイコットする理由にはならない。これは、オリンピックが政治と無関係でいられないもっとも著名かつ重要な意味を持った証拠であろう。どんなものでも、完全に白ではいられないし、また黒でもいられない。必ず、物事には矛盾や、欠点があるものだ。たとえ国際的大会でもそれは例外ではない。問題は、それを見て見ぬふりをすることだ。改善することをあきらめた時、矛盾や欠点は、どうしようもない致命傷になりうるのだから。どんな小さな傷でも、致命傷になりうるのだから。