このところ日本では園芸が(感)
   中3 あきえよ(akieyo)  2025年9月3日

  このところ日本では園芸が大はやりであるが、花木や草花の名称が大変な勢いで外来語に置き換えられている。このような現象の背後に、絶えず新しさを求め続ける日本人の積極性を認める人がいるかもしれない。この精神は私も評価すべきだと思っている。しかし、この新奇さを求める心が、行き過ぎた外来語の流行を引き起こすのはやめてほしいとおもう。私はこの文章を読んで、日本的なよいものを見つめなおす生き方をしたいと感じた。



 そのための方法としては第一に、身近な自然を楽しむ気持ちを持つことだ。そうすれば、物事に追われ焦る気持ちの中でも、自分を客観的に見ることができるような余裕な気持ちを持てるだろう。これは私の体験であるが、自分はいつもなにかに悩んでいるせいか上を向く機会が少なくなった気がする。特に、近くにある公園の横を通る時にも、景色を見ず素通りをすることが多くなった。しかし、だんだんと涼しくなってきた数日前の朝、久しぶりに青空を見た。その景色は、周りの建物と相まってか近頃見た中で一番美しいものであったように感じた。また、少しではあるが今行き詰っている課題についても少し忘れられたように思う。この経験から、身近にある自然を感じることはとても自分の心を軽くする力があると感じた。また、自然だけでなく日頃注視してみていないものにこそ、その魅力に気づいたり、自分が勇気づけられる可能性があることを知ることが出来た。



 また第二の方法としては、自国の文化を理解することを教育の基礎におくことだ。そうすることで、より日本について興味を持とうとする精神がわいてくるだろう。私は、今国語の授業で、松尾芭蕉の『おくのほそ道』の内容を現代文と比較して学んでいる。まだ学び初めであった頃は、言葉遣いが難しすぎたこともあり、少し授業を受けることに抵抗があった。それでも、学んでいくうちにだんだんと「草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家」といった現代では見られないような、また自分で考えても到底考えつかないような真新しい表現方法で詠まれた句にたくさん出会った。これだけで気がころりと変わるのは大げさと思うかもしれないが、それほどに松尾芭蕉の一句一句の作り方が巧妙であり、私もとても感動した。これからも国語の授業が楽しみである。この日本の文化に触れた経験から、最近ネットで海外の情報ばかり受け取る自分と照らし合わせて、改めて日本固有のものに親しみ、次世代に繋いでいくことが大切であると強く実感した。



 確かに、多くの情報を知ることは、自分の視野を広げるためにも重要な方法の一つである。特に海外については全く新しい様式やものの考え方を受け入れることで、自分の価値観をガラッと変えることもあるだろう。しかし、国が違えば文化背景は異なる。自分自身のバックボーンについても、ゆるぎない支柱が有るかどうかあたらめて検証が必要だ。「大切なのは、健康らしい外見ではなく、健康自身である。」という言葉もあるように、これからは、日本人の私が血となり肉となったしっかりとしたアイデンティティを得られることに目を向けていきたい。そのためには日本文化に触れ、日本人としての感性を磨いていくことが大切だ。