市場と社会(清書)
高2 ばにら(tokunaga)
2025年9月4日
近年、フィギュア・スケートやシンクロナイズド・スイミングが注目されている。これらは今までの記録打破ばかりを目指す競技とは異なり、「芸術スポーツ」の分野にあたる。米ソ冷戦終結後に見られるこのような競技の流行は、数字上の争いよりもその精神的内容、という新たな価値観を浮き彫りにしているのではないか。しかし、現代社会において、これまでの数値・商業主義は多くの場面で文化性を優越する。たとえば芸術分野を見ても、(特にアメリカでは)「価値=業績」という元の子もない価値基準が残っているのだ。これは、現在の「芸術スポーツ」に見られる文化的需要とは相反する。では、数値主義・商業主義はなぜこれほど根強いのだろうか。その原因を以下に考察したい。
第一の原因として、「市場合理」と「社会合理」が区別されていないことが挙げられる。市場合理とは、明確な数字と私たちの経済行動から割り出せる論理だ。逆に社会合理とは、集団とその構成員の習慣から生まれる価値判断だ。現代において、この二つが混ぜこぜに話され、あたかも市場合理的な意見が正論であるように思われがちではないか。
たとえば、ありがちなテーマに「奢り奢られ論争」が思い浮かぶ。この議論における主張はこうだ。一方は「お互い同額にした方が公平」、他方は「奢ってもらう方が大事にされているように思えて嬉しい」である。これらの意見がぶつかったとき、前者は「心がこもっていない」、後者は「自己中」と批判され、論争は平行線をたどる。だが、それは無理もない。なぜなら、この二人は別々の合理を使って考えているからだ。よって、最初にすべきことはまず「市場」か「社会」、どちらの合理がこのテーマに適しているかを選ぶことなのである。
しかし、このような対立を前にすると、前者の方が支持を集めやすい。たしかに、数字で表してみれば、10:0よりも5:5の方が公平であるのは明白だ。けれど社会合理の方も、別の正当な論理を持っているはずである。ではなぜ前者は「正論」だと感じられ、後者は「感情論」と片付けられてしまうのだろうか。
市場合理が受け入れられやすい理由として、産業革命以降における社会的な価値観の変化が考えられる。もともと、人間集団における判断は社会合理的だった。しかし、産業の発展に伴い、社会運営は急激に市場合理によって支えられるようになる。すると、経済的合理主義が世俗的な個々の思念よりも重要視されることとなったのだ。次第に、社会合理は「非合理」として過去の遺物とみなされ、市場の合理こそが「科学的」な方針だという通念が広まったのである。
その結果として、私たちは「社会的思考軸」を軽視し、置き去りにしてしまったのではないか。学校教育においても、数字による客観的な成績と「知識の正確性」が問われるばかりで、生徒個人がどう考えるかは重要視されない。もちろん、公平審査が必須な学校受験では仕方がないだろう。けれど、歴史や国語さえもが、用語と模範解答の暗記ばかりの科目になっていることは問題だ。むしろ、知識を道具として扱いながらも、一人一人の思考軸を育てることが必要ではないか。
確かに、商業社会を生き抜く上で市場合理性を求めることは重要である。情報と数字を読み解き、コストパフォーマンスの向上を目指すのは有用な能力だ。しかし、人生にまでコスパの良さを求め始めるのは違う。この時、真っ先に排除されべきは友人・家族だ。だが、私たちの多くがこのような深い関係を大切にしている。なぜならば、それが人生に喜びをもたらすからだ。
喜びを生むのは生産力の高さではなく、「何をどうの消費するのか」なのだ。経済的成功や数字の増減は、そのうち一つの道具にすぎない。道具が目的を乗っ取ってしまっては本末転倒だ。だからこそ、私たちは商業最優先の姿勢を見直し、むしろ内面的な価値を高めていく意識を持つべきだ、と主張したい。