沈黙が結ぶ心のコミュニケーション
中1 ジュンノスケ(akasiyu)
2025年9月4日
日本文化の代表格である花見。そこでは小共同体間の乱闘もしばしば見かけられる。桜や月・雪は儚く、その移ろいやすさを惜しむ心が日本人の自然観賞の基本にある。日本人は現場や体験を重視し、「見る」ことに価値を置くため、物理的対象の共有をし、ともに眺めることによって、会話がなくても共通の対象があることで交流が生まれ、芝居の総見のように社交も成り立つのだ。花見は庶民的なマス・レジャーとして機能している。
僕はこの文章を読んで言葉に頼らないコミュニケーションの取り方は素晴らしいと思った。その理由は二つある。
一つ目の理由としてもし欧米のように言葉に頼りすぎていたら、日本独特の交流は生まれなかっただろうと感じたからだ。欧米では率直な内容で会話をする。そのため、内容が伝わりやすく、明るい対話が続く。しかし、一度きまずい空気を作ってしまったら元に戻すのが難しいほか、日本人に当てはめてしまうと単刀直入に言われて少し傷ついてしまう人もいるので日本人にはあまりむかない交流の方法なのかもしれない。言葉に頼ることで季節の移ろいを感じることなく忙しい毎日を送ることになってしまうかもしれない。休憩はゲームやボーっとすることしかしなくなってしまうかもしれない。季節の移ろいを見ることで、共通のものを友人同士で、交際相手と眺め、交流することによって、心の底から、思いっ切り休むことができる。
二つ目の理由は共通の対象を見ることによって気持ちが通じあい、言葉がなくても気持ちを共有できるからだ。先日、彼女と映画を見に行った。正直、映画は見終わるまで会話ができない。映画の話をするのもその日のうちくらいなのであまり関心がなかった。しかし、彼女がみたいといったので見ることにした。見たのは「沈黙の艦隊~北極海大海戦~」だ。ポップコーンとドリンクを両手に、シアターへ向かう。映画は、迫力があり、ハラハラして家で
は楽しめない臨場感を感じ取ることができた。
その時映画に関する印象が覆された。彼女がいつになく珍しく感動して泣いていたのだ。いま僕らは二人で同じものを見てつながりあっている。会話がなくても、ポップコーンを手に取りながら、スクリーンという共通の対象を見るだけで体感できる言葉にならない何かを、エンディングテーマミュージックを聞きながら気まずくない。むしろ心地よい沈黙を感じ取ることができた。映画館ってこんなにいいのだ。今気づいた。その日の帰り道は映画の話でいっぱい。楽しい一日を過ごすことができた。
私たち日本人も会話自体はするが欧米に比べるとやはり口数が少ない。そんな中で一つの対象をともに眺めることによって、先にも述べたが、言葉がなくてもつながりあっているような感覚がうまれ無言でも気まずくない空気を作ることができ、多少気まずい空気になっても会話を再開しやすくなる。この感覚を忘れずに胸に秘めておきたい。
しかし、映画館に行く前の私のような、会話がない所より二人でアクティブに活動したいと感じている人や、わざわざ映画館に行ってお金をかける、季節の移ろいを眺めるために遠出するくらいなら自分の好きなこと、推し活をしたいなんて思う人がいるかもしれない。ならば自分の好きなことで自分と同じ推しの人と、もしくは同じ趣味の人と共通のゲームをプレイする推しのライブに行くなど、自分の好きなことでほかの人とつながりあうのもアリなのではないかと思う。自分の好きなもので人と交流する。それが日本人の文化なのだから。多少お金がかかっても、自分の好きなことなら許せると思う。私みたいに彼女と一緒に共通のものを見るというのも好きなあの子とならば映画大ぐらいなんてことないと思えるはず。第一きっとみんなで交流するのは楽しいから、一緒に楽しもう。日本文化を。人とつながりあう喜びを。