そうした中で、「戦後史」の(感)
   高2 あいらう(airau)  2025年9月2日

 戦後の科学技術の成長ぶりは、想像を超えている。しかし、苦しんでいる人々の「生」を支えるような科学、生まれて良かったと思える地球を残すための科学に努力を傾注するべきだ。人々の福利厚生に貢献できる科学があまり発達していないのは問題だ。

 その原因としては第一に、人間は、目先の利益に動かされがちだからだ。目先の利益だけを求めてしまうと、長い目で見た時に不利益を被ることが多い。それはスポーツにも関連すると思う。私は小学2年生からテニスを始め、5年生から本格的に試合に出るようになった。小学生のうちは皆体ができていないので、攻めなくても守っていれば勝つことができた。そのため、私はほとんど攻める練習をせず、試合でもずっと守っていた。その結果、多少は試合に勝つことができていたが、高校に入ってから体ができ始め、パワー負けすることがかなり多くなった。そうして、急に攻める練習をするようになり、当然まだ慣れていない為、今まで勝てていた相手にも負けるようになってしまった。そのため私は、小さい時から攻める練習をしていればよかったと後悔している。このように目先の利益だけを求め、その場しのぎで表面的な能力だけを磨いていると、そのうちボロが出る。科学も同じように、国の力を見せつけるためだけに研究するのではなく、もっと社会全体のためになるような研究をしていくべきだろう。

 その原因としては第二に、これまでの日本では、社会の成熟度があまり高くなく、安心・安全にお金を使う、という発想はあまりなかったからだ。日本は明治時代初期に鹿鳴館を建設した。当時の日本は列強と肩を並べる近代国家に見せることが重要だと考えていたため、約20万円、現代でいうと数十億円かけてアピールしようとした。また、不平等条約は撤廃されていなかったため、その打開のためでもあったのだろう。しかし結果として、日本が文明国として認められることはなく、不平等条約の撤廃とはならなかった。さらに、新聞や雑誌も豪華な鹿鳴館を風刺し、国民からの信頼も消えていった。このように、国政においてだけではなく、目先の利益に目をくらますのではなく、長い目で見たときに良い選択をするべきだ。科学においても、単に技術を上げるだけでなく、直接人々のためになる科学を研究するべきだ。

 確かに、社会の進歩のための科学技術も大切だ。しかし、一番大切なのは、社会の発展ではなく、人々の健康と安全だ。社会の発展だけを目指すのではなく、人々の福利厚生を一番に考えて科学技術の研究をしていくべきだろう。