けんかについて
中1 あさくに(asakuni)
2025年10月1日
喧嘩とは二つの意味合いがある。殴り合いをほうふつとさせる肉体的な喧嘩とディベートなどをはじめとする非肉体的な意見のぶつかり合いである。ちなみに僕が支持するのは二つ目の非肉体的な喧嘩である。
僕が「言葉の殴り合い」を支持する最初の理由は、意見と意見がぶつかり合うことで、意見が融合し、調和されてゆくからだ。これをわかりやすく説明すると、人間一人一つは自分だけの「色」がついた粘土を持っているとしよう。そして、自分の意見や思想は自分のアイデンティティーに基づいていることを踏まえ、その者の考えはその粘土をちぎったもので有ろう。そして、会議、ディベート、そしてグループ学習の時に、人は自分の粘土を少しちぎり、相手に「渡す」のだ。この「渡す」行動は言い方によって異なってくるのだが、吐き捨てるように言えば全力投球となり、嫌味臭く言ったら相手の体に刷り込ましていることになる。この「渡し方」も重要だが、この話は一旦置いておいて、お互いの「粘土」がぶつかった時の事を考えてみてはどうだ。意見が共感できるものだったら二つの粘土は水のようにあっさりと混ざるであろう。ただし、全く違った物同士であったらどうなるのだろうか。答えは水と油のようにどんなに混ぜても、融合しない。ただ、唯一水と油との違いは、根気ず良く考えてみたら少しずつ調和される事だ。そしてこれらが融合するのに唯一で一番重要な点はたとえ最初は意味が分からず、馬鹿馬鹿しいかもしれないが、相手の意見の事を考え続ける事だ。ついつい短気になり、吐き捨てて歩き去ることあるかもしれないが、こういう時こそ冷静になり、相手をわかろうとする思いを捨ててはいけないと僕は信じている。
二つ目に「言葉の喧嘩」はその人のコミュニケーション能力や精神の強化につながっていくと思う。最適の例は、親子喧嘩だ。子供が親の教育方針に反感を買い、全力で抵抗し時には泣き叫ぶ光景はいつ見ても痛々しい。だが、僕はこれらの行動が更なる内心的な意味で成長を及ぼしてくれると思う。先ほどの例でも紹介した親子喧嘩を使うと、子供は目上の方に抵抗することで確実な精神的な成長が及ぼされ、親の方も子供を納得させようと必死で話しかけるので確実にコミュニュケーション能力も向上する事でしょう。このように互いの意思がぶつかり合うと火花を散らしながら個人の能力も密かに上達していくのです。
最後に僕が口喧嘩を支持する理由は意見が調和され、互いに新たな世界観を理解することと、密かにコミュニュケーション能力や精神が鍛えられているからである。たしかに喧嘩をしたら相手との印象が悪くなったり、気まずくなったりするかもしれませんが、真の愛や友情はその気まずさのその先にあるのではないだろうか。地球の長い歴史ではネーデルランド出身の哲学者、デジデリウス・エラスムスは「喧嘩をせずに暮らしているのは独身の男である」という衝撃的な明言を残しました。これは喧嘩をしないと、意見のぶつかり合いが無く、意見が調和せずにお互いの事を理解できないという意味が裏にあると思う。皆さんも遠慮や配慮を時には止めて、自分が正しいと思うことを言ってみてはどうだろうか。