智恵と智識
   中2 あおらえ(aorae)  2025年10月2日

  知恵があるかどうかは学歴などとはまったく関係がない。情報には疎いかもしれないのに、豊かな人生の知恵を持った人もいるし、情報にはやたら詳しいのに、全く知恵の言葉を吐かない人もいる。いまの教育は、家庭でも学校でも、十分に考える訓練をしているだろうか、子供は自分の頭でじっくり考えるためのゆとりを与えられているだろうか、という疑念が頭を離れない。フランスの哲学者・ジャン・ギットンという人は何よりも、考えることの大切さを説いた。考える訓練をしなければならないのは子どもばかりではない。教師も大人も同様である。先生が教室で話した言葉の中で子どもが成人した後も椅子までも覚えているのは、たいてい知恵に分類される言葉である。



 知恵は大切だ。2017年に発表された、ブライアン・ヘアの「心理学年報」では、我々ホモ・サピエンスの生存には、協調、寛容性などのホモ・サピエンス特有の知恵が関わっていたとしている。グリム童話には、「ブレーメンの音楽隊」という有名な話がある。年老いた驢馬と、それについて行った犬・猫・雄鶏が夜に寝るための場所を探していると、泥棒の家を発見した。泥棒たちを驚かせることに成功し、逃げて行った隙を見計らって中に入ることができ、また戻ってきた泥棒を追い返すこともできた、という話だ。驢馬など、弱っている動物もいる中で、力ではなく協力と智恵を使うことによって泥棒を追い払うことができた。このように、智恵を使うことによって大きなことでも成し遂げられる。



 確かに知恵も大切だが、知識も大切である。知恵とは、その前提となる知識があってこそ十分に働くものであるから、知識がなければ使えない。私が上海のインター校に通っていたころに、スポーツデイという、運動会があった。リレーの練習をしたときに、ただどういうフォームで走るかだけを考えていたのだが、友達であったシュロックという人が、バトンパスについて提案をした。つまり、受け渡しの練習もしよう、ということだ。その練習にも励み、バトンパスにおけるタイムが大幅にちぢまった結果、無事学年での優勝を果たすことができた。すなわち、智恵以上に、それを支える知識、この場合だとバトンパスも大切だという知識は大切である。



 知恵と知識はどちらも大切なものである。しかし、マハトマ・ガンディーの「目的を見つけよ。手段は後からついてくる。」という言葉がある。そのように、最も大切で重要なものは、智恵でも知識でもなく、何のためにそれを使うか、である。どんなに多くの知識があっても、智恵があっても、行うことが目的に沿っていなければ意味がない。例えば、環境保護団体に入っていて、知識や情報を持っていても、「なぜその活動をするのか」「誰のために行うのか」という目的を考えずに行動すれば、効率が悪く成果も十分に得られないかもしれない。また、知恵を働かせて巧妙な方法を編み出しても、目的が明確でなければ、その努力に何も実りがないかもしれない。したがって、知識や智恵は目的のために使って価値を持つものなのである。