全てを知ったらつまらない
   高1 ヨーヨ(waoho)  2025年10月3日

 大人になって、毎日同じことを繰り返すと、「ふしぎ」に感じることはなくなってくる。これにより、知識で安心感んを得ようとするが、子供は自分なりの物語で納得する。人類は古くから体験の「ふしぎ」を物語で納得する。人類は古くから、体験の不思議を物語で表し、神話として存在を深めてきた。しかし、自然科学の発展によって、外的現象の説明に偏り、心と世界のつながりが見失われつつある。私たちは、物語的説明の重要性を見直していくべきだ。

 そのためには第一に、子供のころの感性を失わないようにすることだ。やはり、当たり前のようにあることに関しては感情の動きは少ない。また、大人になるにつれて感情をあまり出さないことが良しとされているような風潮により素直に喜怒哀楽を表すことができない。そのため、ストレスがかかってしまったり、自分の中で感情をコントロールしようと頑張る結果本来起こらないような混乱が起こってしまうのだ。これを、子供のころの感性に従い、事実ではなく想像で考えることで、現実から良い距離感でいることができるのだ。子供のころの感性を保つためには、何よりもまず身の回りの出来事に「なぜ」や「どうして」という疑問を持ち続けることが大切である。というのも、疑問を持つという行為そのものが、世界を新鮮に見る力を育てるからだ。たとえ素朴な疑問も、実は感性を働かせる第一歩となる。しかも、それを調べたり考えたりする過程で、ものごとを多面的に見る力も養われるのである。僕も、当たり前のように使っていたスマホやPCはなぜ値段が大幅に違うのか気になり、構造や部品の性能というのが大きく影響することを知り、調べてみた。すると、素材の変化によって小型化ができていたり、冷却機能についての興味が湧いた経験がある。さらに、日常生活の中で感じた小さな違和感や美しさを意識して言葉にしてみることも効果的だ。なぜなら、言葉にすることでその瞬間の感情や発見が具体的な形となり、記憶に残りやすくなるからである。たとえば、「今日の夕焼けは昨日より少し寂しそうだった」と感じるだけでも、自分の中にある感性が確かに息づいていることを実感できる。加えて、他人の感じ方に耳を傾けることも重要だ。というのも、自分とは異なる感情の動きを知ることで、より広い視野を得られるからである。こうした小さな積み重ねによって、次第に「当たり前」に埋もれた世界の中から新しい発見を見いだせるようになるのだ。そして、そうした姿勢を保ち続けることで、子供のころのような純粋な驚きや感動を大人になっても忘れずにいられるのではないか。

 第二に、幼児期から、科学的な理屈で説明しすぎないことだ。というのも、あまりに早くから何事にも明確な答えを求めすぎると、自分でイメージする力が育たなくなるからである。たとえば、空が青い理由を大人が「光の散乱現象によるものだ」と教えたとしても、子どもにとっては「青い空の向こうに何があるのだろう」と想像する時間のほうが、心を豊かにする経験となる。つまり、科学的な知識は重要ではあるが、そればかりに頼ると、柔軟な発想や創造的な考え方が生まれにくくなってしまうのだ。実際、歴史を振り返っても、科学と想像の両方を大切にした人物こそが新しい時代を切り開いてきた。たとえば、十五〜十六世紀に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチは、解剖学や光学などを徹底的に研究した一方で、同時に空を飛ぶ人間という夢を持ったり、実際に自作の飛行機械を何十種類も描いている。彼の発想は、科学的合理性だけでなく、「もし人が鳥のように飛べたら」という自由な想像力に支えられていたのである。したがって、子どものころから何でも理屈で片づけてしまうのではなく、疑問に感じたり、「こうなりたい」などの願望という感覚をそのまま受け入れる余地を残すことが大切だ。そうすることで、論理と感性の両方を持った思考が育ち、やがて大人になってからも、既存の枠にとらわれない柔軟な考え方ができるようになるのである

 確かに、科学的な裏付けを持たずに、物語的説明に頼るのは危うい。しかし、「世界を知りすぎたとき、人は世界を感じなくなる。」というように、すべて科学に頼ってしまうと、人としての感性やイメージが欠けてしまう。そのため、物語的説明の重要性を見直していくことが大切なのではないか。