思いやりの循環
   中3 かののん(kanonon)  2025年10月2日

 幼稚園じゃお歌とお遊戯会ばかりだったのに、学校に上がるとお歌とお遊戯が授業から外されてしまう。幼稚園では、一緒に歌い、お遊戯をすることだけでなく、一緒におやつやお弁当も食べる。体に想像力を蓄えさせることで、他人を思いやる気持ちを、共存の条件となるものを、育んできたのである。私は他人を思いやる気持ちを大事にする生き方をしていきたい。



 そのための方法は第一に、コミュニケーションの力を見直すことだ。現在はマシになってきたものの、やはり私は初対面の人に対して臆病になってしまう性格だ。その場ではそうなってしまうものの、よく考えてみると今後の関係性なども反射的に考えてしまっているのかもしれない。シャイは決して悪いこととは言えないが、他人を思いやるのも交流をしなければ難しい。今でこそクラスのリーダーや応援団長を務めるなどの経験を通して人前に出ることや、初対面の人に対して話しかけるということも出来る。もちろん人によって考え方も人との接し方も異なるが、私の場合、幼いときのままの感覚でずっと過ごしていたら対話すらできない人間になってしまっていたのでは無いのだろうかと、自分でも思う。たとえば、ソフトバンクの創業者である孫正義さんも、もとは内気な性格だったという。けれども高校生のとき、新聞で見た当時の日本マクドナルドの社長の記事に強く心を動かされ、自ら電話をかけて「一分でいいから会ってほしい」と頼み続けたそうだ。何度も断られても諦めず、ついに面会を果たした彼は、その一言がきっかけで人生を大きく変えた。もし恥ずかしさや怖さの気持ちに負けていたら、今の彼の成功はなかっただろう。人と関わることには勇気がいるが、その一歩を踏み出すことでしか見えない世界がある。私も、臆病さを言い訳にせず、相手の心に近づこうとする姿勢を持ち続けたい。



 また第二の方法としては、今までの偏差値社会を改めることだ。実際、私の小学生時代にそのようなことが多かった。私が公立小に通っていたということもあり、学年の90%程の人が中学受験を経験した。やはり他の人の結果が気になるお年頃だったため、大半の人が他人の志望校や偏差値を尋ねるのが常であった。当然私も、そのように尋ねられることも多々あった。しかし受験間近になっても、模試で思うような結果が出ることはなく、私の焦りは頂点に達した。そんな中で模試の結果や偏差値を聞かれると、当然恥ずかしくなる。偏差値を尋ねてくる人というのは自分の結果が良い人が多いというのもあり、焦りや不安も込み上がった。もちろんいま考えて見ても当時の私は努力が足りなかったことが痛いほどわかる。しかし、人には物事の得意不得意というものがあり、勉強が得意な人もいれば絵や歌など、芸術的なものが得意な人もいる。現在私の周りには、美術の専門学校に通っている人もいる。やはりそれぞれの個性というものがある。勉学だけで物事を判断してしまっては、その人、その人の個性を認め合うことは難しい。優劣を生まれさせるのではなく、個々の良さを見つけ合うことでより良い社会が生まれるのではないだろうか。



 確かに、人間は自分自身に対して問いかけることも必要だ。しかし、『情けは人のためならず』という言葉もあるように、思いやりの心はめぐりめぐって自分自身を支える力になる。人との関わりを避けず、相手の立場に立って考えることで、互いの違いを受け入れられるようになるのだ。社会の中では、人それぞれ違う物差しで生きている。だからこそ、相手の良さを認め、自分を見つめ直す心の余裕を持っていたい。他人を思いやる気持ちは、最終的には自分を豊かにし、より良い共存社会につながるのではないだろうか。だからこそ、他人を思いやる気持ちを大切にして生きて行くべきだ。