10月の帰り道
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年月日
僕の誕生月でもある10月は、神無月と呼ばれている。諸説はあるが、10月になると各地の神々が、男女の縁結びや各地の今後の天候、収穫量などを話し合って決める「神議り」を行うために出雲大社という大きな神社に集められる。このときに各地から一旦神が離れて神がいないことから「神無月」と名付けられたそうだ。今年は夏が暑すぎたためか、神々が温かさまでも会議に持ち込んだようで、我々は朝布団から出られないという被害を被っている。実際、10月の中旬から気温が急激に下がり、各地の人々が慌ただしい衣替えを迎えたようだ。もちろん変化したのは人々の生活だけではない。紅葉や銀杏を始めとした様々な植物たちが葉を紅や黄に染め始め、その葉を落とし始めたり、動物たちも夏の姿から冬の姿へと少しずつ変化しているようだ。僕の学校のケヤキ並木も少しづつ色づき始め、もう夏は終わったのだ、ということをふと感じさせる。
僕の教室の部屋は至ってシンプルである。窓、机、黒板、白い壁、後ろの壁紙といった具合で全く持って色気というものがない。僕はそんな中で席替えのときに廊下側の端の席を引いた。すぐ帰れるのが強みの席だったので、今日は終礼後すぐに学校を出てみた。通学路はまだ日が出ていて、凍えるほどの寒さではなかった。しかしそんな中でも、長袖長ズボンで帰宅する軍勢の中にいる半袖半パンの少年にはとても違和感があった。
学校の制服に夏服、冬服があるように、人間は季節感というものを強く感じる習性があると僕は考える。なぜなら季節感のないものには違和感を覚えるからだ。もちろん例外もあるが人間は思った以上に季節を重んじている。本当にそうか?と思う人のために一つ例を上げてみよう。オーストラリアは12月が夏だから海パンでサーフィンしているサンタが見られることが有名だ。しかしこれは南半球雨の国なら当たり前のことだろう。ではなぜ、それがわざわざピックアップされて有名になるのか。我々は「サンタクロース=冬」というように無意識にイメージを作っている。そのイメージを大幅に覆すことが人々にインパクトを与え、記憶に残るのだ。さて一つ例を上げたところで、もう一つ言いたいことがある。この考えから、僕は日本などの四季をもつ国の人々は生活と季節が深く関係している、ということが言える。「風物詩」という言葉があるように人々は生活の中の楽しみの一つに季節を織り込んでいる。しかしそれは昔の話であって今の人がそうとは限らない。例えば、最近は郵便料が高くなり、年賀状を出す人がとても少なくなった。おそらくこのままでは、「あけましておめでとう」という言葉もいづれ消えてしまうのではと思ってしまうほどに。それだけではない。花見、菖蒲湯、風鈴、ゆず湯といった様々な文化が消えつつある。そんな中で生きる僕達にとって必要な生き方とは何なのだろうか。もちろん、この季節感を大事にしたうえで、独自的なスタイルを確立させた生き方だろう。
とても長い題のため省略するが、こういった季節を大切にする生き方をするにはどうするのがいいのだろうか。この問いに正解はないが、僕が思いついた2つの案を紹介しようと思う。
ひとつは自然の色に着目して、生活の中に織り込んでみることだ。少し難しいと感じた人はその季節にどんなイメージがあるかを考えて、服など身に付けるものにそのイメージを当てはめてみることをおすすめする。人間が季節感を感じるときに、何をどう感じて感じるかは様々なパターンがある。その中で最もメジャーであろうものは視覚である。人間は情報の70%を視覚で得ている。よって季節感も視覚で判断されることが多いわけだ。じゃあ視覚で季節感を感じるものは一体なんだろうか。風景、と思った方は少し惜しい。色だ。どちらも同じじゃないか、と思うかもしれないがよく考えてほしい。もしピンクの桜が青い桜だったら。風景としては美しいと思うし、桜自体は春の植物だ。しかし、桜はもともと薄い紅色をしている。その独特な色から桜色という色まである。しかしそんな桜が青色だったらなんと春は感じられなくなってしまう。このように人間は色で季節を捉える。そのため、その季節に似合う色を生活の中に溶け込ますことで季節感のある暮らしに激変する。日本の文化の一つ、衣替えにもこれは現れている。その季節らしい服装には四季を生活に取り入れた故人の考えが詰まっているのだろう。
もう一つはその国の文化を真似てみることだ。説明すると、まず文化というのは、その地域の気候や地形などをもとに形成される。季節感というのはここにも表れている。例えば、節分は冬の文化だが、その文化は冬という季節をもとに作られている。他にも様々な文化があるが、花見や菖蒲湯など植物を使うものも多い。そうやって伝統文化を真似して過ごしていくと「春といえば・・・なつといえば・・・」と思い浮かべやすくなる。あとは今の生活に織り込むだけだ。例えば、欧米風の生活スタイルだったなら、夏は風鈴を飾ってみるとか、アンティーク系なら秋に枯れ葉モチーフの絵画を飾ってみるとか、いろいろな混ぜ方ができる。こうすることで季節感から外れないかつ独特な生活スタイルを生み出すことができるのだ。
確かに季節感にとらわれずに生きてもなんの害もないし、最近はむしろそちらのほうが多いと思う。しかし、僕はこの考え方を捨てない。海軍は長い船の中での生活で、日にち地感覚をわすれないように金曜日はカレーと決まっているらしい。それと同じで季節は自分の位置を伝えてくれる。それだけではない。季節感が自然と我々をつなげてくれるから、我々は人生が豊かになる。無機質な部屋に閉じこもって同じことを繰り返す生活よりも遥かに多くの「人生の可能性」を試すことができるのだ。可能性があるほどに人間は進むことができる。僕はどこまで進めるのかが知りたい。だから日本の四季を大切にしたいと考える。
教室を外の世界とつなげてくれる部分が一つだけあることに気がついた。窓はガラス越しに僕たちに知らない季節を伝えてくれる。自分は季節を大切にしているつもりだが、季節を写す窓と反対側の席が席替えで当たってしまったことはなんとも言えない気分であった。今日もまた日が暮れる。帰りの道が夜の闇に包まれていく。また冷えるんだろうな、と思いつつ僕はまだあたたかみの残る帰路を辿った。