昨日の夢(清書)
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年月日
気の向くままに歩き、家の裏庭に入ったところ、昔は細い若木だったもみの木立ががっしりと高く聳えていた。花から花へと渡り歩き、その匂いを嗅いだり、観察したり、上を向き雲の多い朝の空を眺めた。とあるひそかな不安を感じながら、少年時代に喜びを味わったなじみ深い場所を見回す。庭、花で飾られたバルコニー、敷石が苔で緑色になった中庭が昔とは違った面持ちで見つめてきた。花たちは魅力を幾分か失い、水桶ももう泉でなく、大河でもなく、ナイアガラの滝でもなかった。垣根を越えて歩いていくと、鉄道の土手のところで一匹のトカゲを見た。すると、少年心が急に蘇り、ついに捕まえたが、その瞬間に喜びが急に失せた。何をすれば良いかわからない。汽車が輝く鉄路を走って来、それを見送った後、一瞬だが非常にはっきりと列車に乗って世の中へと出たいと心の底から思った。
無邪気に過ごせる子供時代は人生において重要である。その過程で周囲の環境と一体となった満足感によって、人格、性格の形成に影響が及ぶ。私は保育園の年長、小1ほどの年代の時に名古屋の千種区という所に住んでいた。通っていた保育園の園舎内には多目的室という、当時は体育館ぐらいの広さに思えた部屋があった。卒園式はそこで行われたのだが、その時は卒園生の保護者のほか、年少、年中の園児たちも参加し、皆で盛り上がっていたことを覚えている。私も例外でなく友達と騒いでいて、それが印象に残っている。その時の記念品として先生からもらった付箋は今でも大切にとってあるし、その時の服に貼っていた名札さえも、その付箋の瓶に張り付けて保管している。いまでもそれを見るとそのときの情景が眼の前に浮かび上がってきて、懐かしく回想することがある。人にとって子供時代とは、記憶から一生離れないものだ。
しかし、親から自立し、孤独に一人ぽつんといながら自分自身を見つめるような時間も肝要だ。周りと一体となって行動していると、それほど自分自身を深く考えることはないだろう。自分自身と向き合うことで、自分をよりよく知ることができる。例えば、サン=テグジュペリの話に「星の王子さま」という物語がある。飛行機のパイロットであった僕は、砂漠の真ん中に墜落してしまう。そこで会った王子様は別の星から来ていて、地球に向かう道中のほかの星で奇妙な人たちを見てきた。その旅の過程で、自分を深く考える時間を持つことになった。「一番大切なことは、目に見えない」という不思議な狐にもであった。孤独の中で得られた気づきは、人との関わり方を変える。成長が進んでゆく瞬間である。自分のことをよく知ることによって、他人とのつながりの中で本当に大切にすべきものを見極めることができる。
人としての根幹は子ども時代であり、個性が形作られるときでもあると思う。また、心の成長で、「大人」になるために大切なことは自分とより長く、より深く見つめあうことであると思う。無邪気に遊べるような子供時代も、孤独になって考えられる時間もどちらも大切である。しかし、「ロケットの父」と呼ばれるゴダードは「昨日の夢は、今日の希望であり、明日の現実である。」といった。昔の夢を、一歩ずつ着実に進めていく、すなわち自分を成長させることができるように時間を過ごすことが重要だ。子ども時代とはそれをできるようにする基礎を固める役割をし、自分自身と見つめあう時間というのはそれを進めていく過程の一つとしての役回りだと思っている。だからこそ、自分をそれに合わせて成長させていくことこそが最も重要なことである。その積み重ねが、自分の人生を築く力となり、人生を豊かにする鍵となるのだと思う。