まわって

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 レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは、文字通り怒りを発し続けているバンドである。彼らの戦う相手である政治は、「機械」である。ここでの「機械」は、国家と等号で結ばれる存在ではない。十九世紀末、ヴァレリーは、「方法」は個人の自由な裁量権の及ぶ範囲を狭めてゆき、「方法」が世界を制覇すると予言していた。いかなる人間も、「方法」さえ用いれば、同一の結果に到達する。このとき、それを用いる個体性も破壊されるのだ。ここで語られる「方法」は、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが語っていた「機械」と同じであろう。あらゆる機構の細部まで浸透しきった「機械」こそが、私たちから個体性を剝奪する「方法」にほかならない。

 機械に頼りすぎず、自分で乗り越えようとする自立性を身につけるべきだ。

 第一の方法は、ときにまわり道を大切にすることだ。僕の学校の行事で、お遍路がある。僕は六月頃に、八十八番から一番~十番までまわったのだが、その中で、班内で少し困ると感じていることがあった。それは、効率を重要視しすぎる子がいたことだ。お金も時間も計画も、すべて効率的にやらねばならないという完璧主義的な子がいて、僕はちょっとかみ合わなかった。そもそも、お遍路というものごと自体、効率的ではないのではないだろうか。そして、だからこそ、自分が計画していなかった場所に出会ったり、人との交流ができたりする。それが魅力の一つではないかと思う。だから、ときには遠まわりも大切なのだ。とはいったものの、結果的には効率的な旅にならなかった。初日にガスボンベを忘れたり、水道のある場所に泊まれなかったりと、いろいろとトラブルが起きた。その中で、また、成長できたのだと思う。

 第二の方法は、自分の気持ちから動いて、体験していくことだ。大正時代に活躍した小説家である芥川龍之介は、羅生門や蜘蛛の糸で有名だ。当時、特に明治時代では、富国強兵のために国民を教育するという目的が強かった。その風潮は、文学界にもあらわれており、文学は人生の手本であるという考えが浸透していた。その中で、芥川龍之介は、文学とは人間そのものをえがくべきものという考えに至ったため、現代的な心理や疑問を織り込み、人間の「心の弱さ」を捉えた作品が多くある。だから、芥川龍之介の本を読んだ後は心へのダメージがすさまじいのだ。ぼくは、かっぱを読んだときに特にネガティブになった。「正しいやり方なんてものは、過去の成功例に過ぎない。」という映画監督のスタンリー・キューブリックの名言があるが、この場合、「正しい文学なんてものは、国の思惑に過ぎない。」であろう。芥川龍之介は、その型から外れた文学者だといえる。

 確かに、既存の方法を使い、ものごとをスムーズに進めることも大切だ。しかし、自立とは、方法に従い続けて得られるものではなく、自分で失敗して、まわり道を何度も繰り返してついに得られるものだ。だから、機械に頼りすぎず、自分で乗り越えようとする力を身につけるべきだ。